エレノア
涙で視界を滲ませながら、コレットは夕闇に沈む学士会館の二階を歩いていた。
胸の奥が引きちぎられるように痛い。どれほど冷たく突き放されても、最後までクロードを好きだと告げて飛び出してきた自分。後悔はしていないはずなのに、溢れ出る涙はどうしても止まってくれなかった。
人気のない階段へ差し掛かった、その時だった。
「——本当に、どこまでも図々しい女ね!」
背後から響いたのは、鋭く刺さるような高慢な声。
ハッと振り返ろうとした瞬間、コレットの背中に激しい衝撃が走った。
「きゃあぁっ……!?」
強い力で背中を押され、コレットの身体が宙を舞う。
視界が急回転し、眼下に長く急な石造りの階段が広がった。
(嫌……っ!)
反射的に伸ばした手が、奇跡的に木製の手すりに引っかかる。
ガツンと鈍い音を立てて腕と膝を打ちつけながらも、コレットは必死の思いで手すりにしがみつき、間一髪で転落の危機を踏みとどまった。
「痛っ……う、うぅ……っ」
擦りむいた腕の痛みに耐えながら見上げると、階段の上にはエレノア・フォン・ブロンディエル伯爵令嬢が立ち尽くしていた。
クロードに会いに行こうとしていたエレノアは、執務室から泣きながら出てきたコレットを目撃していたのだ。高級なドレスの裾を優雅に揺らしながら、エレノアは嘲笑を浮かべてゆっくりと階段を下りてくる。
「クロード様はもう私のものなのよ? 貴女のような汚らわしい平民風情が、いつまでもクロード様の視界をちらちらと掠めないでちょうだい。不快だわ」
「エ、エレノア様……っ! おやめください……!」
「いい加減、自分の立ち位置を理解したらどう? 貴女みたいな虫ケラが関わっていいお方ではないの」
エレノアは冷酷な笑みを浮かべると、手すりに必死にしがみつくコレットを見下ろし、履いていた尖ったヒールで容赦なく踏みつけようと踏み出した。
「嫌……っ!」
恐怖でコレットはギュッと目を瞑る。
死を覚悟したその瞬間——。
「——そこまでだ、エレノア!!!!」
廊下に響き渡ったのは、地獄の底から響くようなクロードの叫びだった。
踏み出されたエレノアの足が届くより早く、風のように駆け込んできた影が、エレノアの手首を砕かんばかりの強力な力で掴み上げた。
「あぐっ……!? ク、クロード様……っ!?」
「何をしている……!」
そこにいたのは、コレットを冷酷に追い払ったはずのクロードだった。
自分を騙しきれず、胸を切り裂くような後悔に突き動かされてコレットの後を追ってきた彼は、サファイアブルーの瞳を激しい怒りで燃え上がらせ、凄まじい威圧感を放っていた。
「く、クロード様……! 違うのです、この女が勝手に転んで……っ」
「白々しい嘘をつくな!!」
クロードの激昂の一声に、エレノアの顔から一気に血の気が引いた。
「学術都市内での暴行、および明確な殺人未遂……現行犯だ。申し開きなど通用せん」
クロードは氷のように冷徹なサファイアブルーの瞳でエレノアを見下ろし、掴んでいた手首を荒々しく振り払った。
「放校はもちろんのこと……学術監獄へのしかるべき期間の収監は免れないと思え」
「ひっ……!? や、嫌……! クロード様、私をお見捨てにならないで……っ!」
絶望と恐怖にガタガタと震え出すエレノア。そこへ、激しい怒声を聞きつけた学府の警備兵たちが慌ただしく駆けつけてきた。クロードの冷酷な指示により、崩れ落ちるエレノアはそのまま身柄を拘束され、連行されていった。
静けさが戻った階段。
「コレット……っ!」
クロードはすぐさま階段を駆け下りると、手すりにしがみついたまま震えていたコレットの体をそっと引き寄せ、折れんばかりの力で抱きしめた。
「無事か……っ! すまない、すまないコレット……っ!」
「ク……ロード……様……?」
「私が間違っていた……お前を守るためだと自分に言い訳をして、酷い言葉でお前を傷つけた……! だが、あんな嘘でお前を失うくらいなら、世界中を敵に回したほうが何倍もマシだ……っ!」
胸元に回された強い腕から、彼の激しい鼓動と高い体温がダイレクトに伝わってくる。
「私を恨んでくれと言ったのに……どうして最後まで『好きだ』なんて言うんだ……! お前が愛おしくて、手放せるわけがないだろう……っ!」
溢れ出すクロードの本音。コレットは痛む腕を伸ばし、彼の背中にそっと手を回した。
「クロード様……。私、信じていましたから……っ。クロード様の優しさが、嘘じゃないって……っ」
「ああ……コレット……」
クロードは愛おしそうに彼女の額に一度だけ深く口づけを落とすと、周囲の気配を気にするように短く息を吐いた。
「……ここじゃ落ち着かないな。サロンへ戻ろう」
クロードは戸惑うコレットを軽々と横抱きにすると、足早に先ほど飛び出したばかりの個人執務室へと引き返した。




