バルタザール2
キースとのやり取りを終え、夜遅くに帰宅したコレットは、あてがわれた小さめの部屋へと足早に向かった。
バルタザールは学府からほど近い場所に邸宅を借りており、コレットは彼の身の回りの世話を名目に、その一角にあるつつましい使用人部屋で生活している。
街の喧騒から離れたこの邸宅だけが、今のコレットにとって唯一心を休められる居場所だった。
「ふぅ……っ」
室内に入り、ランプの小さな明かりを灯す。
ベッドの端に腰を下ろすと、一気に押し寄せてきた疲労と心の痛みに押し潰されそうになり、コレットは膝の上で両手を固く握りしめた。
クロードとエレノアの噂。そしてキースから向けられた強い情熱——。
頭の中をぐるぐると巡る様々な感情に耐え兼ね、小さな溜息を吐き出した、その時だった。
コンコン、と控えめだが聞き慣れたノックの音が扉を叩いた。
「コレット、起きているか? ……入るぞ」
扉が開かれ、入ってきたのは邸宅の主人であるバルタザールだった。
普段の威厳ある装いとは異なり、上着を脱いでシャツの袖を軽く捲り上げただけの寛いだ姿。だが、その精悍な顔立ちには明らかな心配の色が浮かんでいた。
手には温かなホットミルクを入れたマグカップが二つ載ったトレーが握られている。
「バルタザール様……! どうされたのですか、こんな夜遅くに」
慌てて立ち上がろうとするコレットを、バルタザールは手で制した。
「座ってろ、顔色が悪いぞ。……ちょっと様子が気になってな」
バルタザールは小さなテーブルの上にトレーを置くと、コレットの向かいにある木製の椅子を引き、どっかりと腰掛けた。
マグカップを一つコレットの前へ押しやり、自分も温かい湯気を吸い込む。
「困ったことがあったら言えって、いつも言ってるだろ? ……なんだ、その、ほら。悩みがあるんだろう?」
「……っ」
コレットの肩が跳ね、視線が泳いだ。
隠そうとしても、泣き腫らした目元と固く結ばれた唇がすべてを物語っている。
「お前は分かりやすいんだよ。どうせ隠せないんだから、さっさと吐き出してみたらどうだ? ……クロードの事、なんだろ?」
バルタザールは頭をガシガシと掻きながら、呆れたような、けれどどこか愛おしむような溜息を一つ吐いた。
「……だって、私……従属学生で……。クロード様とエレノア様は、とてもお似合いで……私なんかが立ち入っていい場所じゃ、ないんです……っ」
溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、絞り出すような声で呟くコレット。
そんな彼女の姿を、バルタザールは静かに受け止めていた。
「身分か。……確かに、ヴァルテンベルク侯爵家と平民の差は途方もなく大きい。だから、あの男が背負っているものの重さも、お前には想像がつかないだろうよ。……まあ、俺にもわかんねーしな」
バルタザールは静かに言葉を区切ると、腕を組み、低く温かい声で問いかけた。
「だが、コレット。……お前、それでもクロードのことが好きなんだろ?」
「っ……!」
心の一番奥底にあった本音を直接突かれ、コレットは息を飲んだ。
「とにかく、素直なのがお前の取り柄だ。言わずに諦めて後悔するくらいなら、気持ちを伝えるくらい、言ったってバチは当たらないぞ?」
その言葉は、暗闇の中で途方に暮れていたコレットの心に、一筋の強い光となって差し込んだ。
「……気持ちを、伝える……?」
「そうだ。どうせまだ言ってないんだろ? 届くか届かないか、報われるかどうかは問題じゃない。お前が自分の心に嘘をついたまま我慢するのは、よくないと思うぞ~?」
バルタザールはニッと口角を上げ、不敵に微笑んだ。
「もし言った結果、酷く振られて立ち直れなくなったとしても……その時は元気になるまで、市場で一番高い極上のスイーツを山程食わしてやる! 一度、自分の心に決着をつけてこい!」
その冗談めかした、けれど底抜けに温かい言葉に、コレットの胸の奥で固まっていた冷たい塊がスッと溶けていくのが分かった。
「バルタザール様……」
コレットは目元を拭うと、ゆっくりと、しかし確かな意志を込めて頷いた。
「ありがとうございます……! 私……クロード様に、自分の気持ちをちゃんと伝えてきます」
「ああ。胸を張っていけ!お前は俺の自慢の従属生なんだからな!」
マグカップを持ち上げ、小さく掲げて見せるバルタザール。
その力強い眼差しに見守られながら、コレットの瞳には、迷いを払拭した確かな決意の炎が宿っていた。




