キース3
クロードとエレノアの噂話に心を削り取られ、学府の廊下を千鳥足で歩いていたコレットは、気づけば風の強い廊下を彷徨っていた。――その時。
「……あ」
準備室の重厚な扉が開かれ、中から出てきた人物と視線がぶつかる。
シャツの第一ボタンを寛げ、腕まくりをしたワイルドな出で立ち。潮風に晒されたライトブラウンの髪を後ろに流し、アクアブルーの瞳を優しく細めた男——キース・フォン・アルデンヌだった。
「おや……ボロボロの小鳥さんが、また私の前に舞い降りてきたね」
低く甘い、濡れたような大人の声。
キースはコレットの血の気の引いた顔色と涙の跡を一目で見抜くと、目尻に優しげなシワを寄せ、大きな手で彼女の肩をそっと抱き寄せて室内へと引き入れた。
「さあ、お入り。そんな悲しそうな顔をしてちゃ、私まで胸が痛んでしまうよ」
「キ、キース先生……っ」
コレットがおずおずと足を踏み入れると、キースはすぐさま重厚な扉を閉め、鍵をカチャリと音を立てて回した。廊下の冷気から完全に遮断された室内に、二人きりの濃密な静寂が落ちる。
部屋の中には、温かな紅茶の香りと甘くパウダリーなムスク、そして彼特有のほのかな薬草の香りが満ちている。
「……あのぼっちゃんのことかい? あんな冷たい噂話に惑わされて泣くなんて、君らしくないじゃないか」
「違っ……私、泣いてなんて……っ」
強がるコレットに対し、キースは温かい湯気が立つミルクティーをカップに注ぎ、彼女の手に優しく持たせた。
「嘘がお下手だね。瞳をそんなに真っ赤にして……。傷つく必要なんてないんだよ。頑張り屋の君がどれほど誇り高いか、私が一番よく知っている」
「先生……っ」
いつもと変わらない包容力あふれる優しい先生の言葉に、張っていた糸が切れ、コレットの瞳からポロポロと涙が溢れ出した。
「私……ただの従属学生なのに……っ。分かっていたはずなのに、胸が破れそうに痛いんです……っ!」
「よしよし……辛かったね。よく耐えたよ」
キースはコレットの肩を抱き寄せ、そのハニーブロンドの頭を自分の胸元へ優しく引き寄せて撫でた。コレットは彼の胸に顔をうずめて小さな身を震わせる。
だが——涙を流すコレットを抱きしめるキースの腕に、次第に強い力が籠もり始めた。
呼吸を乱しながら自分にすがりついてくる小さな体温。
彼女を苦しめる男への猛烈な苛立ちと、自分以外の男のために涙を流すコレットへの醜い独占欲が、キースの中で渦を巻き始める。
「……ずるいよ、コレット」
「え……?」
頭上から降ってきたのは、いつもの穏やかな響きとは違う、低く掠れた大人の男の声音だった。
コレットが驚いて顔を上げようとしたその瞬間、腰を抱くキースの手の平にグッと強い力が込められた。
「……もう『いい先生』の振りを試すのはやめだ」
一瞬の浮遊感とともに、コレットの身体はあっさりと持ち上げられ、準備室の中央にある大きな木製デスクの上へと座らされていた。
「ひゃっ……!? キ、キース先生……!?」
キースは彼女の太ももの間に一歩踏み込んで覆いかぶさってきた。
アクアブルーの瞳に宿っているのは、慈しみではなく、嵐の海を思わせる強引で荒々しい光。
「そんなに傷ついておきながら、私にまで隠そうとするなんて……ダメだよ」
大きな手がコレットの細い両手首を捕らえ、デスクの上へ軽く押し留める。
「私には隠さなくていい。あのぼっちゃんがお前を不当に扱うなら……あんな男のところなんて、もう戻る必要はないんだ」
「でも、私……っ」
「いいかい、お姫さん」
言い募ろうとするコレットの言葉を遮るように、キースは顔を近づけ、彼女のハニーブロンドの髪に鼻先を埋めた。頭の後ろへ滑り込んだ大きな手が、逃げ場を失わせるように優しく、けれど絶対に解けない強さで後頭部を抱え込む。
「私なら、お前にそんな惨めな思いは絶対にさせない。私の船に来なさい。私だけの特別な小鳥さんとして、一生甘やかして、可愛がってあげる……」
「ん……っ!?」
拒絶する間すら与えられず重ねられたのは、濃厚な唇だった。
キースの熱く厚い唇が、コレットの唇を割るように強く押し重ねられてくる。
いつも包み込んでくれていた「優しい先生」の仮面は完全に剥がれ落ち、自分を求める男の腕力と肉体の圧迫感がコレットを丸ごと呑み込んでいく。
「ふ……っ、ん、あ……っ」
口内へと容赦なく滑り込んでくる熱い吐息と、シナモンの混ざった甘い紅茶の余韻。
指先をハニーブロンドの髪の奥まで深く潜り込ませ、顎を優しく支え上げられながら、コレットの唇は柔らかく吸い上げられ、貪るように熱を注ぎ込まれた。
逃げ出そうにも、服越しに伝わる彼の高い体温と重厚な鼓動に絡め取られて動けない。
「……んっ、キ、キース……先生……っ」
「ダメだよ、逃がすわけないだろう……? 私の腕の中で、あんな男のことなんて全部忘れておしまい」
耳元で低く囁かれる、過保護で濃厚な甘い言葉。
首筋にキースの荒い吐息と柔らかな唇が落とされるたび、肌の表面を熱い痺れが伝い、息を吸うことすら忘れて彼の腕の中で身を強張らせた。
包み込むようなたくましい抱擁と、自分を慈しみ奪おうとする熱量。
このまま彼の腕の中に囚われ、甘い檻の中で彼だけに可愛がられる『小鳥』になってしまえば、どれほど楽になるだろう。
だが——。
頭を撫でる温かな指先と、熱いキスの感触の裏側で、どうしても消えてくれない記憶があった。
「私……っ」
ポロポロと、コレットの目から我慢していた涙が溢れ出た。
「キース先生……私に優しくしてくれて、ありがとうございます……っ。でも……私、やっぱりクロード様が好きなんです……っ! 忘れられません……っ!」
泣き出しそうな声で絞り出した本音。
キースは目元を細め、固く結ばれたコレットの唇と、その瞳に浮かぶ消えない情熱を見つめた。
そしてハッと我に返ったように苦笑を浮かべると、抱きすくめていた腕の力をゆっくりと緩めた。
「……本当に、バカで強い小鳥さんだね、君は」
キースはコレットをデスクからそっと降ろすと、彼女の涙を親指で慈しむようになぞった。
「私の『極上の甘やかし』でも、あのぼっちゃんの影は消せないか……悔しいな」
「ごめんなさい……ごめんなさい、キース先生……っ」
「謝る必要なんてないよ。君が誰を思っていても……君を愛おしいと思う私の気持ちは変わらないんだから」
キースはいつもの『優しい先生』の微笑みを浮かべ、部屋の鍵を静かに解除した。
「行きなさい、コレット。でも……どうしても辛くなったら、いつでもここへおいで。私の腕は、いつでも君の避難所だからね」
「……っ、はい!」
コレットは深々と頭を下げると、涙を拭いながら準備室を飛び出していった。
一人残された静かな部屋。
キースは胸元を寛げたシャツの襟を直し、自分の指先に残る彼女のハニーブロンドの感触を確かめるように見つめた。
「……やれやれ。逃がしてやるなんて、私も甘くなったものだな」
アクアブルーの瞳に一瞬だけ悔しさと独占欲を走らせながら、キースはぽつりと呟き、深くため息を吐き出したのだった。




