リュシアン4
ライナーの調合室を飛び出してからの数日間。
コレットの胸の傷は癒えるどころか、日を追うごとに深く痛んでいた。
クロードとエレノアの婚約にまつわる噂話は学内の至る所で囁かれ続け、どれだけ耳を塞ごうとしても容赦なく跳ね返ってくる。自分はただの従属学生に過ぎない——そう自分に言い聞かせるほど、あの個人サロンで彼と交わした熱い記憶が脳裏を掠め、胸を焦がした。
その日の夕刻、コレットはバルタザールから頼まれた古文書の語彙を調べるため、大図書館の3階へと足を進めていた。
閉館まであと30分を切ったこの時間帯、大図書館の最奥に位置する『固定閲覧台』に人影はなかった。
高い書架に囲まれ、鎖で繋がれた重厚な羊皮紙の大型辞書が鎮座するその場所は、夕闇の影が深く落ち込み、独特の静寂に包まれている。
コレットが背表紙を繰り、辞書に視線を落としていたその時だった。
気配も、足音すらもなく。
背後の暗がりからすっと伸びてきた長くてしなやかな腕が、コレットの華奢な胴体を背後からすっぽりと抱きすくめた。
「なっ……!?」
驚いて悲鳴を上げようとした瞬間、すれすれの位置でふうっと甘い紫煙が吹きかけられた。
「静かにしろよ。閉館間際のこんな場所でフェローと二人きりなんて見つかったら、お前、即追放だぞ?」
耳元で響いたのは、ガラが悪くも艶のある低い声。
振り返るまでもない。柑橘と古い羊皮紙の香りに混ざり合う、上質な薬草タバコの甘くスモーキーな香り。そして、ゆるふわの亜麻色の髪をなびかせた男——リュシアン・フォン・グラフェンベルクだった。
リュシアンは片手に細い煙草を挟み、紫煙をゆらりとくゆらせながら、もう片方の長い腕一本だけでコレットの身体を逃がさないよう強く引き寄せていた。しなやかな長身の体躯に完全に背後を覆われ、薄い衣類越しに彼の肉体の熱が容赦なく伝わってくる。
「り、リュシアン様……! 放してください……っ」
「断るね」
抵抗するコレットの声を意に介さず、リュシアンはアメジストパープルの瞳を薄暗闇の中で妖しく光らせた。相手の真意を見透かすような笑みを浮かべているが、その瞳の奥は一切笑っていない。
「噂なんて一回耳にすりゃ十分だろうが。ヴァルテンベルクのぼっちゃんとあの高飛車な伯爵令嬢がお似合いの絵画になろうが、お前には関係ねぇはずだろ。……なのに、なんでそんな死にそうなツラしてんだよ」
鋭い言の葉が、コレットの隠していた痛みを容赦なくえぐり出す。
「身分差なんて最初から分かってただろ。あいつがくれた束の間の夢に酔い痴れて……平民の分際で、本気であいつを好きになっちまったんだろ」
「っ……!」
ズバリと言い当てられ、コレットの身体が跳ねた。
息を呑むコレットに対し、リュシアンの表情から余裕の笑みが消える。彼は煙草を持たない方の片腕にぐっと力を込め、コレットの身体を自身の胸元へ逃げ場のないほど力強く引き抱いた。
リュシアンは顔を近づけると、逃げようとするコレットのハニーブロンドの髪に鼻腔を寄せ、うなじから耳元へとしなやかに熱い唇を滑らせていった。
「ん……ッ、あ……っ」
うなじをくすぐる吐息と、柔らかい唇が皮膚を吸い上げる感覚に、コレットの背筋に甘い痺れが走る。
リュシアンの手慣れた愛撫はどこまでも優しく、そして逃げ道を塞ぐように強引だった。
そのまま強引に顔を向けさせられると、隙を与える間もなく、重厚なキスで唇を塞がれた。
「んむ……ッ、ふ……っ!?」
薬草タバコの甘くスモーキーな香りと熱い体温が、口内へとなだれ込んでくる。
コレットを支配し、その存在を自分のもので上書きしようとするような深く激しいキス。熟練した手つきで顎を支えられ、柔らかな唇を割って深く舌を絡められるたび、コレットの頭の中は煙に巻かれたようにクラクラと熱を帯びていく。
逃れられない腕の中で貪るように食み荒らされる感触に、コレットの思考は麻痺しそうになっていた。
「……ふっ、ん……っ」
息が続かなくなり、わずかに唇が離される。
至近距離で見つめ返してくる紫眼は、妖しい光をたたえている。
「叶わねぇ夢見て泣いてるくらいなら、目の前にある現実の男を選べよ」
リュシアンは耳元で低く、甘く脅迫するように語りかけた。
「俺ならお前に身分も、愛撫も与えてやれる。あんなぼっちゃんのことなんて、俺が全部忘れさせてやるよ……」
甘く危険な誘惑。
この腕の中に身を任せ、全てを忘れてしまえば、この胸を切り裂くような痛みから解放されるのかもしれない。リュシアンの情熱的なキスの余韻と触れ合う体温に、コレットの心は激しく動揺した。
だが——。
煙草の香りに包まれ、うっとりと意識が溶けそうになる渦中で、どうしても消えてくれない存在があった。
どれほど身分の差を突きつけられても、どれほど「不釣り合いだ」と周囲に嘲笑われても、自分の心を支配して離さないのは、クロードただ一人だった。
自分がどれほどあの人を愛してしまっているのかを、皮肉にもこの危険な抱擁によって突きつけられてしまったのだ。
「私……っ」
コレットの目から、耐えかねた涙が一粒、頬を伝って零れ落ちた。
「私……クロード様が好きなんです……っ! たとえ相手にされなくても……誰のことも、代わりにすることなんてできません……っ!」
泣き出しそうな声で絞り出した本音。
コレットは抱きすくめられていたリュシアンの片腕を必死で振り払うと、濡れた目を擦りながら、暗がりから逃げるように大図書館の階段を駆け下りていった。
残された最奥の閲覧台。
静まり返った暗がりの中で、リュシアンは挟んでいた煙草を深く吸い込み、紫煙とともに重い息を吐き出した。
「……チッ、クソが」
アメジストパープルの瞳を苦々しく細め、彼は低く舌打ちを鳴らす。
指先に残る彼女のハニーブロンドの柔らかい感触と、最後まで手に入らなかった悔しさが、苦い煙とともに胸の中に残っていた。




