ライナー4
胸を抉るような痛みを紛らわせるように、コレットはバルタザールから頼まれていた別の用事を果たすため、薬相理論特別調合室へと向かった。
重厚な木の扉を静かに開けると、室内には独特の薬草と薬品の澄んだ香りが満ちていた。
夕刻の斜陽が差し込む実験台の前には、ひとりの少年が立っていた。
ライナー・フォン・ロゼンタール。
光の角度によって白銀にも薄い月光色にも見える繊細な髪を傾け、フラスコと天秤を扱うその所作には、一切の隙がない。持ち前の品格で学士衣を着こなし、首元や頬に沿う滑らかな髪が、彼が動くたびに月光の粒子を散らすように静かに揺れていた。
「……バルタザール様から、言伝のお手紙をお持ちしました」
消え入りそうな声で告げると、ライナーは作業の手を止め、繊細な銀縁眼鏡のブリッジを白皙の指先で静かに押し上げた。
氷のように冷ややかな輝きを宿した翡翠色の瞳が、冷徹にコレットを射抜く。
「……実に不愉快だな。お前のその惨めな顔は、空間の質すら下げる。調合の精度を狂わせる前に出て行ってくれないか」
澄んだ、けれど容赦のない皮肉。
コレットは身を縮め、「申し訳ありません……すぐ戻ります」と書類を台の上に置くと、逃げるように引き返し、扉の取っ手に手をかけた。
だが、コレットが扉をわずかに開けた瞬間——
バタンッ!!
背後から伸びてきた細くしなやかな腕が、コレットの頭上から扉を力強く押しつけ、逃げ道を遮るように閉ざした。
背後を完全に塞がれ、扉とライナーの身体の間に挟み込まれる格好となったコレットは、息を呑んで硬直する。至近距離の背後から、ライナーの静かな熱を孕んだ息遣いが首筋に届いた。
「逃げるのかい? クロード様の婚約の噂から逃げるように」
冷ややかに囁く声が、耳元をくすぐる。
「……最初から分かっていたことだろう。ヴァルテンベルクの隣に立つべきはしかるべき血統の令嬢だ。お前のようなつまらん平民が立ち込める世界ではない」
正論という名の鋭い刃が、コレットの胸を容赦なく抉る。
耐えきれず、必死に噛み締めていた唇が震え、コレットの瞳から一筋の涙が溢れ落ちそうになった。
その涙を視界に収めた瞬間、コレットを押し込めていたライナーの気配が一変した。
冷徹だった翡翠色の瞳に、激しい動揺と焦燥——年相応の余裕のなさが走り、彼の中の何かが決壊する。
「……泣くな。私を不快にさせるなと言っている」
低く掠れた声とともに、ライナーの手が伸びた。
白皙の細い指先が、コレットのハニーブロンドの柔らかい髪に滑り込み、頭の後ろを逃がさない強さで、けれど愛おしむように優しく固定する。
強引に振り向かされ、息を吸う間すら与えられなかった。
「ん……ッ!?」
重ねられたのは、冷ややかな外見からは想像もつかないほど、熱く一途な唇だった。
ライナーの薄い唇が、コレットの唇を割り込むように強く押し重ねてくる。幼さを残した顔立ちからは想像もできないほどの圧迫感と、そこに含まれた激しい独占欲。
逃げようとしても、後頭部を支える彼の指先が力強くそれを許さない。唇の位置を何度も変えながら、貪るように深く触れ合わされる体温の熱さに、コレットの頭の中が真っ白になっていく。
「……ふ……っ、ん……ぁ……」
隙間から零れる熱い吐息。
銀縁眼鏡がコレットの頬に掠れ、触れ合う皮膚の薄さと彼自身の鼓動の速さが、至近距離から伝わってくる。
やがてゆっくりと唇が離されたが、距離はわずか数ミリのままだった。
翡翠色の瞳が、濡れた瞳孔を開いてコレットを至近距離で見つめつづけている。
「……あの方に用済みとして捨てられたのなら、私が拾ってやる」
荒い息を吐きながら、ライナーはすがるような瞳で静かに語りかけた。
「私を選べ、コレット。私の管理下に入り、私の所有物になるのなら……二度とそんな惨めな思いはさせないと、約束してやる」
まっすぐに向けられた少年の言葉に、コレットの心は激しく揺さぶられた。彼の手を取り、この優しい温もりに甘えてしまえれば、どれほど楽になるだろうか。
けれど——。
情熱的なキスの余韻が残る唇の感触の裏側で、どうしても消えてくれない影があった。
あの個人サロンでの一時、クロードのあの甘い熱。
どれほど残酷な噂を聞かされても、どれほど身分の差を突きつけられても、コレットの心の一番深い場所を占めているのは、クロードその人だった。
「ライナー……様……っ」
罪悪感と胸の痛みに押し潰されそうになりながら、コレットは彼の胸を押し返した。
「私……今は――、ごめんなさい……っ!」
「コレット——」
伸ばされたライナーの手を振り払うようにして、コレットは扉を押し開き、逃げるように調合室を飛び出していった。
残されたライナーは、彼女が去った扉を見つめたまま、白皙の指先で自分の唇にそっと触れた。
氷のように冷やかだったその瞳には、手に入らなかった苛立ちと、消えない恋着の火が揺らめいていた。




