キース2
学務棟での資料失踪事件から、さらに数日が経過した。
その日、コレットは教官からの依頼で、学園の敷地外にある城下町の文具店へ特殊なインクと羊皮紙の買い出しに訪れていた。買い物を終え、重い荷物を抱えて夕暮れの街を歩いていたコレットだったが——裏路地の角を曲がった瞬間、前方を二人のガラの悪い男たちに塞がれた。
「やあ、お嬢さん。ちょっと付き合ってもらおうか」
「え……? あの、私、急いでいますので……」
引き返そうと振り返るが、すでに後方にも男が一人立ち塞がっていた。いずれも学園の生徒ではない。
「そう怖がるなよ。上の御方からの言いつけでね。お前みたいな平民は、もっとお似合いの遠い場所へ運んでやろうって寸法さ」
「嫌……っ! 助け——」
叫ぼうとしたコレットの口を、男のゴツゴツした手が塞ごうと伸びてくる。
恐怖で固まるコレット。
だが——その手がコレットの肌に触れるより早く、シュッ、と風を切る鋭い音が響いた。
「ぎゃあッ!?」
男が悲鳴を上げて手首を押さえた。その手甲には、どこから飛んできたのか、銀色に光る細身の投剣が深く突き刺さっていた。
「私の小鳥さんに、その薄汚い手を触れないでもらおうか」
静かで、どこか楽しげな、艶のある大人の声。
夕闇が迫る路地裏の屋根の上から、ひらりと軽やかに降り立ったのは、南方の意匠の仕立ての良いコートを羽織った青年だった。
シルヴァーナ公国の貿易船団最高幹部であり、学園の特別招聘講師を務める男——キース・ヴァン・デル・メールである。
「キ、キース先生……!?」
「ごきげんよう、コレット。買い物かい? 重そうな荷物だね」
キースは恐怖に震えるコレットへ優しく微笑みかけると、そのまま優雅な足取りで男たちの前へと進み出た。
「て、てめえ、余計な首を突っ込んでんじゃねえぞ! こっちは金をもらって——」
「分かっているさ。学園の生徒が下品な荒事の手配をしたんだろう?」
キースは呆れたように肩をすくめると、腰の細身の剣に手を添えた。
「残念だったね。この街の物流と情報の裏ルートは、すべて我がシルヴァーナの船団が介入させてもらっている。私の目を盗んで妙な動きをすれば、すぐに耳に入るのさ」
次の瞬間、息をつく暇もない一閃が走った。
キースが剣を抜き、納刀するまでの間、わずか一秒。
胸元を浅く切られたゴロツキたちは恐怖のあまり腰を抜かした。
「命があるうちに消えたまえ。依頼主には『シルヴァーナが引き取った』と伝えればいい」
男たちが悲鳴を上げて一目散に逃げ去っていくのを見届けると、キースは素早く剣を収め、コレットのもとへと歩み寄った。
「怪我はないかい?」
「は、はい……! 大丈夫です……! ありがとうございます、キース先生……」
腰が抜けてへたり込みそうになるコレットの体を、キースは大きな手で優しく、しっかりと支えた。
そして、彼女が抱えていた重い荷物をひょいと代わりに持ち上げると、安心させるようにその頭を撫でた。
「怖かったね。……まったく、君のような素直で可愛いお嬢さんが、なぜこれほど危険な火種に巻き込まれているのやら」
キースは大人の余裕を感じさせる笑みを浮かべつつも、その眼光はふっと深く、鋭いものへと変わっていた。
「送っていくよ。これ以上、君に嫌な思いはさせたくないからね」
「あ、あの……キース先生は、今の人たちの事、何かご存知なんですか……?」
不安そうに尋ねるコレットに対し、キースは街灯の光の下でそっと唇に指を当てた。
「ふふ、ちょっとした耳の早い情報屋の嗜みさ。君が知る必要はないよ。ただ、困ったものだね。恋心というのは、時に冷静な判断を狂わせる」
キースは穏やかに微笑みながらコレットの肩を抱き寄せ、学園への道を歩き出した。
◇
学園へと戻った頃には、すっかり日が落ちていた。
キースは門の近くを通りかかった下級の男子生徒を呼び止めると、爽やかな笑みを浮かべて指示を出した。
「そこの君、すまないね。教官室へこの荷物を届けておいてくれないか。『コレットから無事に預かった』と伝えてくれればいい」
「あ、キース先生! はい、承知いたしました!」
生徒が荷物を受け取って走り去るのを見送ると、コレットは慌てて声をあげた。
「あ、あの! キース先生、自分で届けますのに……!」
「ダメだよ。君はまだ、全身が細かく震えているじゃないか」
キースはそう言って、コレットの冷たくなった小さな手を両手で優しく包み込んだ。
指先から伝わる微かな震えを悟ったキースは、低く甘い声で囁く。
「少し、落ち着いた方がいい。私の部屋へおいで。温かいカモミールと蜂蜜を用意しよう」
「え……? でも、先生のお邪魔に……っ」
「ふふっ。今の君を一人で帰せるほど、私は冷淡な人間じゃないんだよ」
断る間もなく手首をやんわりと引かれ、コレットは講義棟の階上にあるキースの個人執務室へと連れ込まれた。
重厚な木製扉が閉まり、静寂と温かなムスクの香りが二人を包み込む。
部屋に入るなり、キースはコレットを深々とした革張りのパーソナルチェアに座らせた。
「さあ、力を抜いて。まずは気持ちを休めないとね」
キースは手際よく湯を沸かし、ハーブティーのカップをサイドテーブルに置いた。
そのまま自分のコートを脱いで椅子に掛け、第一ボタンを緩めると、コレットの目の前にすっとひざまずいたのだ。
「き、キース先生……!? なにを……っ!」
驚くコレットの足を、キースは壊れ物を扱うようにそっと両手で持ち上げた。
「さっき、足首を少し捻ったんだろう? 靴を脱がせておくれ」
「ひゃあ……っ、だ、大丈夫です! 自分で対処できますから……っ!」
顔を真っ赤にして縮こまろうとするコレットだったが、キースは「静かに」と唇に指を当て、くすりと妖艶に微笑んだ。
「ダメだよ、可愛い生徒のケアをするのも教師の役目だ。……それに、私は今、君を甘やかしたくてたまらないんだから」
すっと靴が脱がされ、薄い靴下越しにキースの温かく大きな手が足首を包み込む。
手慣れた手つきで優しく圧をかけ、揉みほぐしていく指先。その心地よさと、キースの体温がじわじわと伝わってきて、コレットの背筋に甘い痺れが走った。
「あ……う、ん……っ」
「痛むかい? それとも……くすぐったいかな?」
「そ、そうじゃなくて……っ」
(なんだか、すごくドキドキして……変な感じに……!)
恥ずかしさで両手で顔を覆うコレットを見て、キースの瞳の奥がふっと深く熱を帯びた。
キースは立ち上がり、コレットを逃さないかのようにチェアに両手をあて、腰をかがめて至近距離から彼女を見下ろした。
「コレット。……君は本当に、隙が多すぎるよ」
「え……?」
「こんな薄暗い部屋で、男の前に無防備に足を投げ出して……。私が『良い先生』でいられなくなったら、どうするつもりだい?」
「キ、キース先生……」
顔を覆っていたコレットの手を、キースの長い指がすっと解いて握りしめる。
逃げ場を失ったコレットの目元に、キースはゆっくりと顔を近づけ、吐息が触れ合うほどの距離でささやいた。
「あんなゴロツキどもに君を触らせたと思うだけで、胸の奥が焼き尽くされそうだったんだ。……君をこの部屋に閉じ込めて、私だけのものにしてしまいたい……そんな酷い考えが、頭をよぎるくらいにはね」
(な、なんだか今のキース先生……優しいのに……すこし怖いっ)
その甘い檻に囚われたコレットは、とろんとした瞳のまま、キースの手の中で小さく息を呑むことしかできなかった。
「……ふふ、怖がらせてしまったね。ごめんよ」
キースはコレットの指先にそっと愛おしそうに唇を寄せリップ音を立てると、名残惜しそうに立ち上がった。
「さあ、ハーブティーが飲み頃だ。今夜は私が下宿先まで送っていくからね。……もう二度と、君を一人にはさせないよ」
言葉の意味を測りかねて顔を赤くするコレットを見つめながら、キースは心の中で冷ややかに笑った。
(クロード・フォン・ヴァルテンベルク……コレットが満足そうならと思って、様子を見ていたが……大切なものを守るには器不足のようだな。なら、引き際を決めてもらうとしようか)




