バルタザール
「う〜ん、これで全部かな……」
レガリア大学の西棟。旧式資料や予備の備品が雑多に積み上げられた資材倉庫で、コレットは小さな息をついて汗を拭った。
コレットのように従属学生とし入学した生徒には、こうした学内の雑務が頻繁に割り振られる。特別不満があるわけではない。むしろ、こうして体を動かしている間は、最近何かと自分を気にかけてくるクロードとの甘やかな時間を思い出さずにいられるからだ。
(……はぁ。油断すると、すぐにクロード様の温もりや、やわらかい口唇を思い出しちゃう……)
頭を振って雑念を追い払い、コレットは棚の最上段から資料箱を引っ張り出そうと背伸びをした。
その時だった。
ギィ……と不吉な軋み音が響いたかと思うと、コレットの頭上——大型の木製棚が、突如としてグラリと大きく傾いた。
「え……!?」
棚の上には、建築用の石材サンプルや重圧な鉄製の工具類がぎっしりと載っている。
ガラガラガラッ! と激しい音を立てて、凶器と化した重い木枠と石材の群れが、コレットの頭上から一斉に崩れ落ちてくる。 逃げようにも足が竦み、コレットは反射的にぎゅっと目を瞑って両腕で頭をかばった。
(嘘……っ!)
衝撃を覚悟した——次の瞬間。
ズドォン!!
地響きのような凄まじい衝撃音が響いたが、なぜか痛みが来ない。 恐る恐る目を開けたコレットの視界に飛び込んできたのは、見慣れた逞しい背中だった。
「っと……! あぶねえあぶねえ、間一髪だったな!」
豪快な笑い声とともに、落ちてきた巨大な木製棚を、なんと片手でガシッと受け止めている男がいた。 ネルドリンゲン公国が誇る豪商の嫡男——バルタザール・フォン・アイゼンヴァルドだった。
「ば、バルタザール様……!? え、一人で持ち上げてるの……!?」
「おうよ! たまたま通りかかったら妙な音がしたんでな。おいコレット、怪我はねえか? どこも痛んでねえか?」
バルタザールは事もなげに木棚をドカンと元の壁際に押し戻すと、ガサゴソと落ちた石材を蹴いのけ、素早くコレットの前にしゃがみ込んだ。
「は、はい……! 奇跡的にかすり傷ひとつありません!バルタザール様が来てくれなかったら本当に危なかった……」
「ははっ、礼には及ばねぇよ! お前が無事ならそれで十分だ!」
安堵で脚の力が抜け、へたり込んでしまったコレットに対し、バルタザールはニカッと眩しい笑顔を向けた。 そして、その大きくて無骨な手を伸ばすと、コレットの頭をポンポン、と力強く、大らかに叩いた。
「まったく、相変わらず危なっかしいやつだなあ。お前は昔からドジだから心配になるぜ」
「いえいえ、今のはドジとかじゃなくないですか?!」
「ははは! 言い訳すんなって! まあいいや、何か困ったことがあったら、遠慮なく俺に言うんだぞ? な?」
(ああ……よかった……)
クロードの前では時に息が詰まるような緊張感に押し潰されそうになるコレットだったが、バルタザールの変わらない笑顔と大きな手の温もりに触れ、胸の奥に溜まっていた重圧が一気にけていくのを感じた。
「……はい。ありがとうございました、バルタザール様。すっごく安心しました……」
ふっと肩の力を抜き、年相応の素直で柔らかい笑顔を見せるコレットは、バルタザールとの出会いの日のことを思い出していた。
◇◇◇
あれは数年前の冬、雪深いネルドリンゲン公国の田舎町でのことだ。 寒風が吹き荒ぶ中、コレットは凍りつくような川辺へ向かっていた。貧しい我が家の貴重な現金収入となる、冬場にしか採れない希少な薬草を少しでも多く摘むためだった。
その帰り道、雪だまりの中にぽっかりと大きな影が落ちているのを見つけた。 近づいてみれば、なんと雪に半分埋もれて倒れている同年代の少年——バルタザールだったのだ。
驚いたコレットは走って自宅へ戻り、家族総出で彼を家に運び込んだ。暖炉の火を焚き、必死に介抱して数時間後。ようやく目を覚ましたバルタザールが口にした倒れていた理由は、あまりにも呆れ返るものだった。
『いや〜、ちょっと珍しい鳥を追いかけて遠出したら迷っちまってな! 腹が減って動けなくなったから、とりあえず寝てたんだ!』
「吹雪の中で寝たら死んじゃいます!」と呆れ果てつつも、コレットは凍傷になりかけていた彼の大きな手を、薬草を塗った布で丁寧に、何度も温めながら手当した。
当時のコレットの家は、決して裕福ではなかった。それどころか、お人好しで誠実すぎる父が他人の保証人になってしまい、悪質な高利貸しから不当な借金を背負わされていたのだ。
それでもコレットの家族は、見ず知らずの行き倒れの少年に温かいスープを分け与え、家族のように温かく迎え入れたのだった。
すっかり元気を取り戻したバルタザールは、自分がネルドリンゲン公国でその名を知らぬ者はいない大豪商「アイゼンヴァルド家」の嫡男であることを明かした。 そして、コレットの手当の献身さと家族の温かさを大いに気に入った彼は、豪快に言い放ったのだ。
『よし! お前らの家の借金、俺がぜ~んぶ払ってやる! その代わりコレット、お前はうちで雇う! 平民としちゃ破格の給料出すから、俺の専属としてついてこい!』
そうして強引に連れてこられる形で、コレットの運命は大きく変わった。 借金は一瞬で完済され、家族は貧困から救われ、さらにはこうして最高峰のレガリア大学に学費免除の従属学生として通う機会まで得られたのだ。
(バルタザール様がいなければ、今頃うちや私はどうなっていたか……。本当に、心から感謝しているんだもの)
破天荒で大雑把だけれど、誰よりも情が深く優しい恩人。 だからこそコレットにとってバルタザールは、大切な存在だった。
「おいおい、なんだよコレット。急にしみじみした顔しやがって」
「ふふ、なんでもありません。バルタザール様、いつも本当にありがとうございます」
「おう! 任せとけって!」
大きくて温かい手で、もう一度頭をポンと叩いて豪快に笑うバルタザールを見つめるコレットだった。




