8
古家の診療所に到着し、診察室に入る。
診察室には薬品の匂いが漂っていた。
手術台の上では、小さなハムスターが静かに横たわっている。
腹には丁寧に縫合された跡があり、意識こそ戻っていないものの、胸は規則正しく上下していた。
拓真は駆け寄ると、手術台を覗き込んだ。
「ハムタ…」
小さな声で呼びかける。
古家は穏やかに笑い、拓真の頭を優しく撫でた。
「心配するな。ハムタはいま、麻酔で寝とるだけじゃ」
その言葉を聞いた途端、拓真の表情から緊張が消えた。
俺は手術台のハムスターを眺めながら尋ねる。
「このハムタとやらは、拓真、お前が飼うのか?」
拓真は腕を組み、小さく唸る。
「うーん……」
しばらく考え込んだあと、何か思いついたように俺を見上げた。
「俺、学校あるから、八雲おじちゃんの家で飼えない?」
思わず眉が動く。
俺はゆっくりと古家へ視線を向けた。
「古家。あのマンションはペット禁止だったな…確か」
古家は何事でもないように頷いた。
「ペット禁止じゃが、ハムタは特別にOKじゃ」
「やったあ!」
拓真は両手を高く上げて飛び跳ねた。
その無邪気な喜びように、俺はため息をつく。
気づけば、話は勝手に進んでいた。
「……勝手に決めやがって」
ぼそりと呟くと、古家は楽しそうに笑うだけだった。
拓真は俺の服の裾を軽く引っ張る。
「ときどき、ハムタに会いに行っていい?」
期待に満ちた目で見上げられ、断る言葉が出てこない。
「ああ」
短く返事をすると、拓真はまた嬉しそうに笑った。
今日は依頼のない、退屈な一日になるはずだった。
それなのに自宅に女が訪ねてきて、古家の孫と出会い、気づけばハムスターまで預かることになっている。
まったく。
どうやら俺の日常は、少しずつ狂い始めているらしい。
古家は診察室の奥へ姿を消すと、しばらくして大きめの段ボール箱を抱えて戻ってきた。
中には小さなハムスター用のケージをはじめ、餌、水入れ、回し車、トイレ用のマットまで、一通りの飼育用品がきれいに詰め込まれている。
俺は箱の中を覗き込み、思わず眉をひそめた。
「……なんでこんなものを持ってるんだ?用意周到にもほどがあるだろ」
古家は得意げに髭を撫でる。
「こういうこともあると思って、買っておいたんじゃよ」
その言葉に、拓真が目を輝かせた。
「さすが、じいちゃん!天才!」
古家は満足そうに笑う。
「ほっほっほ。そうじゃろ?」
まるで祖父と孫の漫才を見せられている気分だった。
俺は小さく息をつきながら、手術を終えたハムタをそっとケージの中へ移す。まだ麻酔が効いているのか、丸くなったまま静かに眠っていた。
「お前も今日は災難だったな」
小さく呟いてケージの扉を閉める。
左腕で段ボール箱を抱え、拓真がケージを持つ。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
拓真は元気よく返事をすると、俺の隣へ駆け寄ってきた。
俺たちは古家の診療所を後にする。
古家は玄関先に立ち、穏やかな笑みを浮かべながら俺たちを見送っていた。
気づけば、左腕に段ボール。
隣には無邪気な少年。
昼、目を覚ましたときには想像もしなかった光景だった。
殺し屋の俺が、ハムスターを抱えた少年と家路につく。
人生というものは、本当に何が起こるか分からない。




