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しばらくすると、廊下から足音が聞こえてきた。

コツ、コツ、と一定のリズムで近づいてくる。


このマンションは壁が薄い。

隣の部屋で椅子を引く音、夜中に蛇口をひねる音、様々な生活音が耳に入ってくる。

まともな賃貸なら文句の一つも言いたくなる造りだ。

だが、ここより安全な場所を俺は知らない。


古家のマンションは、過去を捨てた人間だけが住む場所だ。

互いの素性を詮索しない。

余計なことも聞かない。

それさえ守れば、警察にも裏社会にも見つかりにくい。

だから多少の不便には目をつぶるしかなかった。

そう思った矢先。


コンコン。


玄関の扉が控えめに叩かれる。


「……誰だ」


返事はない。


もう一度、静かにノックの音が響く。


俺は小さく息を吐き、ドアスコープものぞかずに扉を開けた。

そこには、一人の女が立っていた。

黒く長い髪はまだ濡れていて、水滴が毛先からぽたり、ぽたりと床へ落ちている。


湯上がりなのだろう。

裸にバスタオルを巻いている。


年齢は二十代半ばくらいか。

整った顔立ちをしていて、街を歩けば誰もが振り返るような美人だった。

だが、このマンションで見た目ほど信用できないものはない。

裸にバスタオル姿で隣人に挨拶する女など普通ではない。


「今日からここに越してきた者です」


女は丁寧に頭を下げた。


「しばらく隣に住むことになりました。よろしくお願いします」


その声は落ち着いていて、不思議と警戒心を抱かせない。

普通の男なら、笑顔の一つくらい返しただろう。

だが俺は違う。

ここで長く生き残る方法は、一つしかない。

誰とも関わらないことだ。


「迷惑だ」


女がゆっくり顔を上げる。


「……え?」


「帰れ」


それだけ言って、俺はためらうことなく玄関の扉を閉めた。

ガチャリ、と鍵をかける。

しばらく外は静かだった。

追い返されたことに腹を立てたのか、それとも呆れたのか。


俺には興味がなかった。

人と関われば、いずれ情が生まれる。

情は判断を鈍らせる。

そして、その鈍りが命取りになる。

俺は冷めかけたブラックコーヒーを一口飲み、窓の外へ視線を向けた。


依頼のない静かな一日は、まだ終わりそうになかった。


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