1
依頼のない一日は長く感じる。
目を覚ますと、天井の染みがいつもよりはっきり見えた。
枕元の携帯電話を手に取り、画面を確認する。
着信なし。
暗号化された依頼用のアプリにも、新しい通知は来ていない。
ゼロ件。
思わずため息が漏れた。
時計を見る。
午後2時30分。
普段なら、とっくに身支度を終え、依頼人から送られてきた写真を眺めながら現場へ向かっている時間だ。
だが今日は違う。
殺す相手も、向かう場所もない。
俺はベッドからゆっくりと起き上がる。
右腕のない肩が、妙に疼く。
この腕を失ってから二十年近く経つ。もう痛みはない。
それでも雨の日や寒い朝には、存在しない腕が疼くことがある。
人はそれを幻肢痛と呼ぶらしい。
洗面所で顔を洗い、真っ白な髪を適当に整える。
鏡に映る男は四十を過ぎ、ずいぶん老け込んで見える。
キッチンで湯を沸かし、ブラックコーヒーを淹れる。
砂糖もミルクも入れない。
苦いまま飲むのが好きだった。
静かな部屋で湯気を眺めながら、一口すする。
そのときだった。
――ドン。
隣の部屋から、小さな物音が聞こえた。
俺は視線だけを壁へ向ける。
「……新しい住人か」
このマンションでは珍しいことじゃない。
ここは普通の人間が住む場所じゃない。
警察に追われる者。
ヤクザを抜けた者。
身元を隠して生きる者。
そして俺みたいに、人を殺して金を稼ぐ者。
世間から消えた人間だけが、この建物で息をしている。
マンションの管理人は古家という老人だ。
表向きは医者ですらない。
だが裏社会では名の知れた闇医者だった。
撃たれようが刺されようが、問題ない。
奴は金さえ積めば黙って治療する。
余計なことは聞かない。
住人同士も互いの過去を詮索しない。
それが、このマンションで生きる唯一のルールだった。
隣からもう一度、小さな物音が聞こえる。
俺はコーヒーカップを置き、静かに立ち上がった。
「さて……」
どんな奴が越してきたのか。
少しだけ、興味が湧いた。




