14
午後五時ごろ、隣の部屋から玄関の扉が開いて閉まる音が聞こえた。
どうやら、雨音を保護している奴が帰宅したらしい。
俺は耳を澄ませる。
夜になると、隣室からベッドが激しく軋む音が響き始めた。
その合間に聞こえてきたのは、雨音の笑い声だった。
楽しそうな笑いではない。
誰かを嘲るような、乾いた笑い声。
俺は目を閉じる。
あの女は、何を考えている。
何を演じ、何を隠している。
答えは見つからないまま、長い夜が過ぎていった。
翌朝。
まだ空が白み始める前の午前四時。
隣の部屋の玄関が開閉する音で目が覚めた。
――雨音だ。
理由は説明できない。
だが、そう確信した。
俺は素早く服を着替え、コートを羽織ると部屋を飛び出す。
階段を駆け下り、一階へ。
外へ出ると、冷たい朝の空気が頬を刺した。
人気のない道を走る。
やがて交差点に差しかかると、赤信号の前に一人の女が立っていた。
紫色のワンピースを着た女が、ぼんやりと信号を見つめている。
雨音だった。
俺は黙って近づき、自分のコートを彼女の肩へ掛ける。
雨音は少し驚いたように俺を見上げ、それから小さく笑った。
「さよならって言ったのに」
「……」
俺は答えず、静かに尋ねる。
「これからどうするつもりだ?」
雨音は視線を空へ向ける。
「わからないわ」
その返事は、初めて聞く本音のように思えた。
俺は少しだけ間を置いて口を開く。
「俺と一緒に行かないか」
「…どこへ行くの?」
「決めてない」
「……」
雨音は目を細め、寂しそうに笑う。
「愛してるって言ってくれたら……」
しばらく沈黙が流れた。
朝焼けが少しずつ街を照らし始める。
俺は雨音をまっすぐ見つめた。
「……お前を愛してる」
その一言を聞いた瞬間、雨音の肩が震えた。
これまで見せてきた笑顔とも、嘘泣きとも違う。
堪えきれなくなった涙が頬を伝う。
雨音は顔を覆い、声を殺して泣いた。
俺は何も言わず、その身体を静かに抱き寄せる。
冷え切っていた肩が、少しだけ震えを止めた。
言葉はもう必要なかった。
朝日が昇り始める街を背に、俺達はゆっくりと歩き出す。
人混みのない静かな街並みへ溶け込むように、小さく、小さく消えていった。




