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午後五時ごろ、隣の部屋から玄関の扉が開いて閉まる音が聞こえた。

どうやら、雨音を保護している奴が帰宅したらしい。


俺は耳を澄ませる。


夜になると、隣室からベッドが激しく軋む音が響き始めた。

その合間に聞こえてきたのは、雨音の笑い声だった。


楽しそうな笑いではない。

誰かを嘲るような、乾いた笑い声。

俺は目を閉じる。


あの女は、何を考えている。

何を演じ、何を隠している。

答えは見つからないまま、長い夜が過ぎていった。



翌朝。


まだ空が白み始める前の午前四時。

隣の部屋の玄関が開閉する音で目が覚めた。


――雨音だ。


理由は説明できない。

だが、そう確信した。


俺は素早く服を着替え、コートを羽織ると部屋を飛び出す。

階段を駆け下り、一階へ。

外へ出ると、冷たい朝の空気が頬を刺した。


人気のない道を走る。

やがて交差点に差しかかると、赤信号の前に一人の女が立っていた。

紫色のワンピースを着た女が、ぼんやりと信号を見つめている。


雨音だった。


俺は黙って近づき、自分のコートを彼女の肩へ掛ける。

雨音は少し驚いたように俺を見上げ、それから小さく笑った。


「さよならって言ったのに」


「……」


俺は答えず、静かに尋ねる。


「これからどうするつもりだ?」


雨音は視線を空へ向ける。


「わからないわ」


その返事は、初めて聞く本音のように思えた。

俺は少しだけ間を置いて口を開く。


「俺と一緒に行かないか」


「…どこへ行くの?」


「決めてない」


「……」


雨音は目を細め、寂しそうに笑う。


「愛してるって言ってくれたら……」


しばらく沈黙が流れた。

朝焼けが少しずつ街を照らし始める。

俺は雨音をまっすぐ見つめた。


「……お前を愛してる」


その一言を聞いた瞬間、雨音の肩が震えた。

これまで見せてきた笑顔とも、嘘泣きとも違う。

堪えきれなくなった涙が頬を伝う。


雨音は顔を覆い、声を殺して泣いた。

俺は何も言わず、その身体を静かに抱き寄せる。

冷え切っていた肩が、少しだけ震えを止めた。


言葉はもう必要なかった。

朝日が昇り始める街を背に、俺達はゆっくりと歩き出す。

人混みのない静かな街並みへ溶け込むように、小さく、小さく消えていった。






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