13
目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む西日が部屋を橙色に染めていた。
身体を起こし、壁の時計を見る。
午後四時を回っている。
思った以上に眠ってしまったらしい。
「おはよう」
聞き慣れた声がした。
視線を向けると、雨音がベッドのそばの椅子に腰掛けていた。
「よく眠れた?」
そう言って、コップに入った水を差し出してくる。
俺は何も言わず、その水を見つめた。
沈黙だけが流れる。
雨音は小さく笑う。
「疑ってるのね」
そう言うと、俺の手からコップを受け取り、自分で一口飲んでみせた。
「ほら」
何も入っていない。
そう証明したかったのだろう。
だが俺は、その水には手を伸ばさなかった。
黙って立ち上がり、寝室を出る。
「もう帰るの?」
雨音の問いにも答えず、玄関を抜け、自分の部屋へ戻った。
洗面所へ向かい、蛇口をひねる。
冷たい水で顔を洗い、鏡を見上げた、そのときだった。
首筋に違和感を覚える。
鏡越しに目を凝らす。
黒いペンで、小さく文字が書かれていた。
『さよなら』
俺は無言で指先を当てる。
インクが指につく。
「……」
すぐに石鹸を取り、何度も擦る。
黒い文字は少しずつ薄れ、やがて跡形もなく消えた。
だが、胸の奥に残った違和感だけは消えない。
どうしてだ。
ただの悪戯だ。
それなのに、首筋に書かれた文字が妙に胸へ引っかかる。
もう二度と会えない、別れの言葉のように書かれた文字。
「……」
雨音が俺の頭を撫でた時、幸せを感じてしまった自分がいる。
あの瞬間が永遠に続けばいいと、そう思ったのは何故なのか…わからない。
俺は考えるのをやめ、リビングへ向かった。
ハムタはケージの中を元気に歩き回っている。
俺が寝ている間におそらく部屋に拓真が来たのだろう、
餌は補充され、水は替えてある、汚れた床材も新しいものへ取り替えられていた。
小さな命は、何も知らずに餌を頬張っていた。
その姿を見ていると、不思議と気持ちが落ち着く。
俺はシャワーを浴び、そのまま寝室へ戻り、ベッドへ倒れ込んだ。
天井を見つめながら、首元に書かれていた文字を思い返す。
『さよなら』
なぜ、あの言葉に動揺したのか。
理由が分からない。
分からないはずなのに、その言葉が心のどこかを静かに締めつけ続けていた。




