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次の日の朝。

拓真はケージの前にしゃがみ込み、小さく手を振る。


「ハムタ、また来るからね!」


ハムタは鼻をひくひくと動かし、ケージの中を歩き回っている。

その姿を見て安心した拓真は、玄関に向かい、靴をはいた。


「学校に行かなきゃ。また放課後に来るね!」

そう言い残し、玄関から出ていった。


静かになった部屋で、俺は深く息を吐く。

結局、一睡もできなかった。


頭から離れないのは雨音の存在だ。

鍵のかかった部屋に平然と入り込んできても、不思議ではない。

あの女なら、夜中に忍び込み、ハムタや拓真に危害を加える可能性すらある。

考えすぎだと言われれば、それまでだ。

だが、殺し屋として生きてきた勘は、何度も俺の命を救ってきた。


俺はケージの前にしゃがみ込み、餌を入れた。

ハムタは昨日とは違い、餌へ一直線に駆け寄る。

小さな前足で器を押さえながら、夢中になって食べ始めた。


「……食べるようになったか」


ようやく胸のつかえが少しだけ下りる。

そのときだった。


――ドンッ。


隣の部屋から、何か重いものが床へ倒れたような音が響いた。

俺は反射的に顔を上げる。


「……まさか」


雨音が倒れたのか。

いや。

また芝居かもしれない。

俺を部屋へ誘い込むための罠という可能性もある。

助けを求めるふりをして近づき、隙を突く。

そんな手口はいくらでも見てきた。


俺はしばらくその場に立ち尽くした。

行くべきか。

放っておくべきか。

心の中で何度も天秤が揺れる。

やがて俺は、小さく舌打ちした。


「……くそ」


放っておいて、本当に倒れていたら寝覚めが悪い。

俺は部屋を出ると、隣の部屋の前まで歩いた。


コン、コン。


玄関を叩く。


「おい」


返事はない。

もう一度叩く。

それでも反応は返ってこなかった。


俺はゆっくりとドアノブへ手をかける。

回してみると、抵抗もなく扉が開いた。

鍵はかかっていない。

嫌な予感が胸をよぎる。

俺は周囲を警戒しながら、静かに部屋の中へ足を踏み入れた。


隣室のリビングへ足を踏み入れると、雨音が床に倒れていた。


「おい、大丈夫か?」


俺はすぐに駆け寄り、肩を揺する。

すると雨音はゆっくりと目を開き、口元を緩めた。


「……やっぱり来てくれた」


その笑みは、いたずらが成功した子どものようだった。

俺は眉間に皺を寄せる。


「お前のようなイカれた女は他にいない」


雨音はくすりと笑う。


「他にいないってことは、私って特別な存在?」


そう言うと、雨音は不意に俺との距離を縮め、軽く唇を重ねた。

俺は反射的に身を引こうとした。

だが、その瞬間、強烈な眠気が意識を襲う。


「……っ」


視界が揺れる。

頭が鉛のように重い。

昨夜は一睡もしていない。

雨音への警戒で神経を張り詰め続けた代償が、一気に押し寄せてきた。

俺は額を押さえ、その場に膝をつく。


「どうしたの?」


雨音が覗き込む。


「寝不足だ……」


それだけ言うのが精一杯だった。

雨音は少し驚いたような顔をしたあと、静かに俺の左腕を肩へ回した。


「歩ける?」


返事をする前に身体から力が抜ける。

雨音は俺を支えながら寝室まで連れて行き、ベッドへ横たえた。

少し硬い布団が背中を包む。


「少し眠りなさい」


雨音はベッドの縁に腰掛けると、子どもを寝かしつけるように、ゆっくりと俺の頭を撫で始めた。

その手つきは意外なほど優しかった。


「……可愛い人」

雨音が言った。


子守歌が、耳元で聞こえる。

眠ってはいけない。

そう思うのに、まぶたは鉛のように重い。


意識がゆっくりと沈んでいく。

最後に見えたのは、どこか寂しげに微笑む雨音の横顔だった。

そして俺は、抗うことなく深い眠りへ落ちていった。



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