12
次の日の朝。
拓真はケージの前にしゃがみ込み、小さく手を振る。
「ハムタ、また来るからね!」
ハムタは鼻をひくひくと動かし、ケージの中を歩き回っている。
その姿を見て安心した拓真は、玄関に向かい、靴をはいた。
「学校に行かなきゃ。また放課後に来るね!」
そう言い残し、玄関から出ていった。
静かになった部屋で、俺は深く息を吐く。
結局、一睡もできなかった。
頭から離れないのは雨音の存在だ。
鍵のかかった部屋に平然と入り込んできても、不思議ではない。
あの女なら、夜中に忍び込み、ハムタや拓真に危害を加える可能性すらある。
考えすぎだと言われれば、それまでだ。
だが、殺し屋として生きてきた勘は、何度も俺の命を救ってきた。
俺はケージの前にしゃがみ込み、餌を入れた。
ハムタは昨日とは違い、餌へ一直線に駆け寄る。
小さな前足で器を押さえながら、夢中になって食べ始めた。
「……食べるようになったか」
ようやく胸のつかえが少しだけ下りる。
そのときだった。
――ドンッ。
隣の部屋から、何か重いものが床へ倒れたような音が響いた。
俺は反射的に顔を上げる。
「……まさか」
雨音が倒れたのか。
いや。
また芝居かもしれない。
俺を部屋へ誘い込むための罠という可能性もある。
助けを求めるふりをして近づき、隙を突く。
そんな手口はいくらでも見てきた。
俺はしばらくその場に立ち尽くした。
行くべきか。
放っておくべきか。
心の中で何度も天秤が揺れる。
やがて俺は、小さく舌打ちした。
「……くそ」
放っておいて、本当に倒れていたら寝覚めが悪い。
俺は部屋を出ると、隣の部屋の前まで歩いた。
コン、コン。
玄関を叩く。
「おい」
返事はない。
もう一度叩く。
それでも反応は返ってこなかった。
俺はゆっくりとドアノブへ手をかける。
回してみると、抵抗もなく扉が開いた。
鍵はかかっていない。
嫌な予感が胸をよぎる。
俺は周囲を警戒しながら、静かに部屋の中へ足を踏み入れた。
隣室のリビングへ足を踏み入れると、雨音が床に倒れていた。
「おい、大丈夫か?」
俺はすぐに駆け寄り、肩を揺する。
すると雨音はゆっくりと目を開き、口元を緩めた。
「……やっぱり来てくれた」
その笑みは、いたずらが成功した子どものようだった。
俺は眉間に皺を寄せる。
「お前のようなイカれた女は他にいない」
雨音はくすりと笑う。
「他にいないってことは、私って特別な存在?」
そう言うと、雨音は不意に俺との距離を縮め、軽く唇を重ねた。
俺は反射的に身を引こうとした。
だが、その瞬間、強烈な眠気が意識を襲う。
「……っ」
視界が揺れる。
頭が鉛のように重い。
昨夜は一睡もしていない。
雨音への警戒で神経を張り詰め続けた代償が、一気に押し寄せてきた。
俺は額を押さえ、その場に膝をつく。
「どうしたの?」
雨音が覗き込む。
「寝不足だ……」
それだけ言うのが精一杯だった。
雨音は少し驚いたような顔をしたあと、静かに俺の左腕を肩へ回した。
「歩ける?」
返事をする前に身体から力が抜ける。
雨音は俺を支えながら寝室まで連れて行き、ベッドへ横たえた。
少し硬い布団が背中を包む。
「少し眠りなさい」
雨音はベッドの縁に腰掛けると、子どもを寝かしつけるように、ゆっくりと俺の頭を撫で始めた。
その手つきは意外なほど優しかった。
「……可愛い人」
雨音が言った。
子守歌が、耳元で聞こえる。
眠ってはいけない。
そう思うのに、まぶたは鉛のように重い。
意識がゆっくりと沈んでいく。
最後に見えたのは、どこか寂しげに微笑む雨音の横顔だった。
そして俺は、抗うことなく深い眠りへ落ちていった。




