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雨音はゆっくりと立ち上がると、ためらうように俺へ近づいた。
細い指先が、そっと俺の左腕に触れる。
俺は払いのけなかった。
逃げる様子も、受け入れる様子も見せず、ただ雨音の出方を見ていた。
「……あなた、名前は?」
静かな問いだった。
俺は答えない。
沈黙だけが部屋を満たす。
雨音はもう一歩だけ距離を詰めると、そっと俺の腰へ腕を回した。
そして、ためらいがちに顔を寄せる。
俺は動かなかった。
雨音は短く唇を重ねると、ゆっくりと顔を離した。
俺は表情一つ変えずに口を開く。
「抱かれにきたのか?」
雨音は目を伏せ、小さく頷いた。
再び沈黙が流れる。
俺は静かに言った。
「俺は妻子は持たないと決めている。それでもいいのか?」
雨音はかすかに微笑んだ。
「いいわ。私、生まれつき子宮がないの。だから安心して」
その言葉を聞いた瞬間、俺は雨音の腕をほどき、一歩距離を取った。
「……生まれつき?」
鼻で笑う。
「記憶を失ってるんじゃなかったのか?」
部屋の空気が一変する。
雨音の表情が固まった。
さっきまで震えていた肩も、ぴたりと止まる。
俺は冷たい視線を向けたまま続ける。
「記憶がない人間が、生まれつきのことだけは都合よく覚えてるのか。
ずいぶん便利な記憶喪失だな」
「……」
雨音は何も言い返さない。
そのまま俯いたまま肩を震わせた。
「ふふふ……」
小さな笑い声が静かな部屋に響く。
やがて顔を上げると、さっきまで涙を流していた女とは別人のような笑顔を浮かべていた。
「あなたみたいな用心深い人。私、好きよ」
俺は何も答えない。
雨音は肩をすくめ、くるりと踵を返した。
「あなたとの茶番はおしまい♪」
そう言って玄関へ向かった、そのときだった。
扉が開き、一人の小さな影が姿を現す。
「おねえさん、だれ?」
拓真だった。
俺は思わず目を見開く。
「拓真……こんな時間にどうした?」
拓真は少し申し訳なさそうに頭を掻く。
「ハムタの様子が気になって……」
その言葉を聞いた雨音は足を止める。
ゆっくりと拓真の前へしゃがみ込み、目線を合わせた。
「拓真くん。私に子供が生まれたら、その子を好きになっちゃだめ……わかった?」
拓真はきょとんと首を傾げる。
「よくわかんないよ。どうして好きになっちゃ駄目なの?」
雨音が静かな声で言う。
「……君を壊しちゃうから」
それだけ告げると、雨音は振り返ることなく部屋を出ていった。
玄関の扉が静かに閉まり、部屋には重苦しい沈黙だけが残る。
拓真はしばらく閉じられた扉を見つめていたが、やがて頬を少し赤く染め、俺のほうを向いた。
「ねえ、八雲おじちゃん。あのおねえさん誰?」
俺は間を置かずに答えた。
「お前は知らなくていい」
その返事に拓真は「危ない人なんだね」と小さく頷き、ケージの中で眠るハムタへ視線を移した。
一方の俺は、閉じられた玄関を見つめ続けていた。
雨音という女。
あいつは嘘をつく。
だが、それ以上に危険なのは、嘘と本当を巧みに混ぜて話すことだった。




