10
その日の夜。
時計の針は午後11時を指している。
眠りにつこうとした、そのとき。
コン、コン。
静かな部屋に、玄関の扉を叩く音が響いた。
俺は目を開け、大きく舌打ちをする。
「……誰だ。こんな時間に」
明かりをつけ、ゆっくりと玄関へ向かう。
このマンションで深夜の来客なんて、ろくな用件じゃない。
警戒しながら扉を開けると、そこには昼間、追い返した隣の部屋の女が立っていた。
ラフな部屋着姿で、長い黒髪を肩へ流している。
女は俺の顔を見ることもなく、部屋の中へ視線を向けた。
そして、リビングに置かれたケージを見つけると、小さく呟いた。
「……あれ?まだ生きてたんだ」
その一言で十分だった。
俺は女の肩を強くつかむ。
「……あのハムスターを傷つけたのは、お前か?」
女は驚く様子もなく、俺を見つめ返す。
「うん。だって捨てられていたから。
捨てるってことは、もういらないってことでしょ?」
その価値観に、一瞬言葉を失う。
女は俺の手を軽く振りほどくと、まるで自分の部屋へ帰るかのように玄関をまたぎ、勝手に中へ入っていく。
「勝手に入るな!出ていけ」
俺が低い声で言うと、女はケージの前まで歩き、ハムタを見つめた。
しばらく黙っていたかと思うと、その場に力なく膝をつく。
肩が小さく震え始めた。
「……この子を傷つけて、ごめんなさい」
そう言うと、女は声を押し殺すように泣き崩れた。
その涙が本物なのか、それとも演技なのか。
長年、人を見てきた俺でさえ、その表情だけは読み切ることができなかった。
女は床に膝をついたまま、震える声を絞り出した。
「私、なんでもするわ。だから、許して。お願い……」
その言葉に、俺はため息をつく。
許すも何も傷つけられたのは俺じゃない。
俺は女を見下ろしながら、静かに尋ねた。
「……名前はなんだ?」
女は少しだけ顔を上げる。
「……雨音」
「苗字は?」
その瞬間、雨音の表情が曇った。
「ないの……」
小さく首を横に振る。
「記憶を失っているから…。
記憶が戻るまで、警察の人に匿ってもらっているの」
記憶喪失。
その言葉を聞いても、俺は驚かなかった。
このマンションには、それ以上に奇妙な事情を抱えた連中が何人もいる。
「警察の奴に保護されてるのか」
「そう……」
雨音は小さく頷いた。
だが、その表情はどこか怯えている。
「だけど……安心できないの」
「…それは、どういう意味だ?」
雨音は少し迷うように視線を落とし、ゆっくりと言葉を続けた。
「警察官だから……何かされても、その事実を消せるでしょ?だから、誰も信用できないの」
部屋に静かな沈黙が流れる。
俺は雨音の目を見つめた。
恐怖を演じているようには見えない。
だからといって、すべてを信じる気にもなれなかった。
「だから……」
雨音は立ち上がると、一歩だけ俺との距離を縮める。
「私を安心させてほしい…」
俺はその場を動かず、静かに雨音を見返した。
女が俺を頼る理由など、一つも分からない。
だが、その瞳の奥には、作り物ではない孤独が宿っているように見えた。




