第8話 「蓬生神社例大祭」
祭り当日の朝、力也はいつものように夜明け前の少し空が白む刻には外に出ていた。
境内に立ち、空を見上げる。
(今日はいつにも増して清々しい朝だな……)
確かに清々しい。昨日の準備の疲れも感じない。山の空気が澄んでいて、鳥の声が遠くから響いてくる。
ただ——なんか変だ。
ふと本殿の方を見ると、ひかりがうつ伏せで寝ていた。いや、寝ていたというより、完全に気絶していた。
「おはよう!力也!」
蓬生が本殿から顔を出した。
(いやだから何で呼び捨てなんだ)
「あぁ、おはよう。うずめは……寝てんのか?」
「昨夜約束したじゃないですか!とびっきり苦い、気絶するほどの生薬を調合するって!」
「あーそうだな。じゃあガチで二日酔いしたんだな、あいつ」
力也が起きるおよそ半刻前(人の世で約1時間前)のことだった。
「うっ、ウゲゲゲゲ……。あっ、うっ。やっちまった……飲みすぎた」
ひかりは前にもやらかしたことがある。その話はまたいつか。
その隣で、蓬生がすやすや眠っていた。
スピー。
物音を感じ、蓬生が薄目を開けた。
スピー……。
「………?」
「……!?」
「ウゲゲゲゲ……」
「うずめさん!!大丈夫ですか!?」
「……まだ、戻して…な……い……」
「あーっ!もう!少し我慢してください!」
蓬生は昨夜調合した劇苦気絶級二日酔い専用生薬の粉末を持ってくると、ためらいなくひかりの口にぶち込んだ。
「飲め!無理してでも飲め!」
「……うっ」
ごくり。
ひかりは、あまりの苦さに悶絶する暇もなく気絶した。
―――そして今に戻る。
そこへ森樹も起きてきた。
「おはようございまー」
どすっ。
森樹は気絶しているひかりに足の小指をぶつけた。
「……」
ひかりは動かない。
「……あー、寝相悪い方?」
「おはよう、森樹。その神、ほっといていいよ!」
「……少がそんなこと言うって相当だな」
「蓬生が呆れるか……少名毘古那神が呆れるのは相当だな」
森樹と力也は少し引いていた。蓬生も半分呆れていた。
里の人々も今日は朝早い。
九兵衛と里長が並んで坂を上ってくる。九兵衛は御神酒を、里長は里で収穫した作物のお供え物を抱えている。道中、女性たちや子どもたちが薬草や山菜を採りながら神社へ向かってくる賑やかな声が聞こえてきた。
「おーい、蓬生~。おはよう!」
「あっ!九兵衛!おはよう!」
「!? そこに誰かいるのか!?」
里長が目を丸くした。
「誰って、いるだろ」
九兵衛が当たり前のように言った。
「この神社の御祭神さまが」
「!」
里長が膝から崩れかけた。九兵衛がとっさに支える。
「九兵衛は本当に見えるんだな」
力也がぽつりと言った。
「じゃあ、あいつも見えるんだよな」
人の気を纏った力也が本殿を指差す。そこには、うつ伏せで絶賛気絶中のひかりがいた。
「あれ、どうしたんですか?あのべっぴんな旅のお方は」
「べっぴんというか……あれが一応、天鈿女命だが」
「!? なんと!天鈿女命さまと言えば、躍りで神々さまを爆笑の渦に巻き込んだ奇想天外大胆女神様だが……まさか寝姿も大胆だとは……」
九兵衛がどこからかメモを取り出そうとしたので、力也がどうにか手を押さえた。
「あれは気絶してるの。二日酔いで」
「なんと。じゃあ、この御神酒は持ってきたらまずかったかのう」
九兵衛と里長が顔を見合わせる。里長は今誰と話しているのかまだよく分かっていないが、とりあえず合わせておいた。
「御神酒!?」
「あ、起きた」
力也が言った。
「!?」
森樹が飛び退いた(とびのいた)。
木々の精霊たちが一斉にこちらを向いた。
「あ、"お酒"に反応した」
蓬生がつぶやく。
「もしかして、うずめさんは飲ませてはいけないタイプの神?」
「あー、まあ、そうだな」
力也が淡々と説明し始めた。
「飲ませた後はしばらく酒に反応するやべーやつだからな。最低一週間は酒をあいつに見せたり話題にしたりするのは良くない。もっとも、飲まない時は全然飲まないが、飲ませるとずっと続くからな」
「へぇー……あー、そう」
蓬生はもう完全に引いていた。
ひかりが御神酒に飛びつきそうになったのを見て、力也は片手でひかりを受け止める。もちろん、御神酒が見えないように顔面を押さえて受け止める。その隙に蓬生が本殿へ御神酒を運ぶべく駆け出した。
「さて」
森樹が気を取り直した。
「彼女は置いといて、里のみんなも揃い始めてるし、そろそろ準備するか。えーっと、最初何だっけ?」
「"祈りの儀"じゃな」
九兵衛が答えた。
「あーそうそうって、えぇーー!!」
「あー、九兵衛は"見えてる"からね」
蓬生が戻ってきながら言った。
「神が話してることも分かるよ」
「そ、そうか……もしかして神職か何かの血筋か?」
「それは分かりませんな。少なくともわしの先祖は皆、農家じゃから」
「血筋、か……」
力也が静かに繰り返した。その目がどこか遠くを見ていた。何かを思い出しかけているような、そんな顔だったが——"それ"が何かは、分からなかった。
「さあ、祭壇にお供え物を並べて!儀式はわしが進めよう!」
里長が声を上げた。
「いや、ここはわしが」
九兵衛が名乗り出た。里長がむっとした表情を見せたが、九兵衛の手元を見て、すぐに口をつぐんだ。
九兵衛の手に、古びた紙切れがあった。
「それは?」力也が聞いた。
「これは、わしの家の古い箪笥の奥に大事に仕舞われていたものじゃ。なぜそこにあるのかは分からないが、"蓬生神社例大祭祝詞"と書かれていたから、今日必要じゃと思ってな」
森樹がそれを覗き込んだ。
「これ……ただの祝詞じゃなさそうだけど、なんだろう……うーん」
考え込む。が、分からない。
「へぇー、これが」力也が紙を見た。
「これって——"神楽舞"の作法じゃない!? しかもめっちゃ古い!」
ひかりが目を輝かせて紙に食いついた。いつの間にか酔いは完全に覚めている。
その紙は祝詞ではなかった。古式の神楽舞の舞い方指南書だった。
「神楽?」里長が首をかしげた。
「そんなはずはない。記憶では神楽なんて見たことがない。それにこの神社には巫女さんもいない」
ますます謎だった。
蓬生に聞くのが一番手っ取り早い。
蓬生は少し考えてから口を開いた。
「神楽舞なんて、やってないよ。やってないけど……もう二百年も前かな? 宮司さんと他に"二人の女性"が、祝詞みたいな言葉を一緒に唱えてた。そのあとにはいつも神気が上がってた」
「じゃあ、ここに書いてある文字は……神気を鼓舞する言葉が書かれているのか」
「まあ、よく分からんがとりあえずやってみるかのう」
いや、分からずにやるなよと力也は思った。
祈りの儀が始まった。
練習なしのぶっつけ本番だったので、終始グダグダだった。
ひかりたち神々は祭壇を挟んで奥側に、九兵衛たちは手前側で正座する。九兵衛が古びた紙を手に、ぎこちなく祝詞を読み上げていく。途中つっかえ、声がひっくり返り、お供え物を食べる場面では神々となぜか里の人々も一緒にもぐもぐしていた。
それでも——全ての祝詞を唱え終えた時、蓬生の言う通り、神気が上がっていた。
お供え物の影響か、あの古い指南書の言葉の力か。なぜ神気が上がるのかは、謎のままだった。
祈りの儀が終わると、祭りが始まった。
参道に屋台が並び、子どもたちが走り回り、大人たちが久しぶりに顔を合わせて笑い合う。神々はみな人の気を纏い、里の人々とともに祭りを楽しんだ。
ひかりはふと蓬生を見た。
出会った頃の蓬生ではない。その体には神気が漲っていた。人の気を纏えるほどにまで回復している。境内にも、本来あるべき神気が満ちていた。眷属の狛犬たちは、はしゃいで境内を駆け回っている。
ひかりは、心から安心した。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。
夜、屋台を片付け、飾り付けを外し、境内を掃き清める。里の人々の顔には、数十年ぶりの祭りの余韻が残っていた。みんな笑顔だった。神々も笑顔だった。力也も、普段の怖そうな顔とは違い、珍しく笑顔を見せていた。
ただ——森樹だけは、どこか曇っていた。
その深夜。
「さーっ!後夜祭だ!飲むぞーっ!」
「ふざけるな、お前は禁酒だ」
「はぁー!!勝手に決めるな!」
「お前、蓬生にどんだけ迷惑かけてたか分かってるのか」
「アー、タイヘンダッタナー」
蓬生は朝を思い出し、半分魂が抜けていた。
「……すみません。禁酒します」
その後、力也が酒を飲もうとするとひかりが文句を言い、俺は悪酔いしないと言い返す力也を蓬生がなだめる。そんな、親子のような、兄弟のような空間がそこにはあった。
ひかりがふと森樹の方を見た。
ろうそくの傍で、森樹は膝を抱えたまま黙っている。その表情は、祭りのときからずっと曇ったままだった。
「どうしたの?森樹」
「そうだよ、どうしたの?」蓬生も続いた。
力也も無言で視線を向けた。
「あー、すまない」森樹がゆっくり顔を上げた。
「ちょっと……私が住む森のことを考えててな」
「そう言えば、山の神気が薄れてるって話してたよね?」
「あぁ。ただな、この話……そう簡単な話じゃないんだ」
「?」
「実はな―――」
森樹が話し始めた。
森樹が住む森は、ここからもう少し東に行ったところにある山の麓にある。森樹はいつもそこから山の頂上にあるお社へ向かい、山の長へ挨拶し、日々の山林の管理と守護を行なっていた。
ある日の朝のことだった。
いつものようにお社へ向かう森樹は、途中で足を止めた。
おかしい。
木々が萎れている。小川が枯れている。いつも飛んでいる虫の姿がない。駆け回る動物の気配がない。精霊たちの声が、聞こえない。
森樹は急いでお社へ向かった。
「長ー!森が、山が、おかしいです!なんの気配も感じません!木々が萎れてます!精霊たちも……」
お社の中を覗いて——森樹は息を呑んだ。
「長! 長! しっかり!」
この山の長、「大山津見神」が、しおれていた。
三柱の神は、絶句した。
森樹は続けた。
「今も神気は"吸われ続けている"」
森樹は窓から、東の山を見つめた。
三柱も、静かにその視線を追う。
夜の闇に浮かぶ山影。
月明かりに照らされたその姿を見て、ひかりは息を呑んだ。
「……うそ」
山全体が、まるで命を失ったように黒く沈んでいた。
―――その山にはもう、緑がなかった。
―――第9話へ続く。




