第6話 「あの日の道」
翌朝、力也はすでに支度を済ませていた。
いつもの着物ではなく、動きやすい作務衣に雪駄。袖をまくり上げ、今すぐにでも作業に入れるような格好だ。ひかりが目を覚ました時にはもう境内に立ち、鳥居の先の山道をじっと見つめていた。
昨日の舞の余韻は、まだ辺りに漂っていた。木々の気配が違う。山全体がどこか深く息をしているような、そんな感じがした。力也の神気も、普段より明らかに満ちている。ひかりの舞が、山の精霊たちをしっかりと鼓舞していたようだった。
そこへ、坂の下から声がした。
「おはよう」
九兵衛だった。大きな風呂敷を両手で抱えて、ゆっくりと坂を上ってくる。
「おはようございます!九兵衛さん!」
ひかりの返事を聞き、笑みをこぼす九兵衛。
「その風呂敷は?」ひかりが聞く。
風呂敷を広げると、大きなおむすびが八つ。梅干し、おかか、塩昆布。丁寧に握られた、どれも美味しそうなものばかりだ。
「わぁ~、おむすびだ!九兵衛さん、朝からありがとうございます!」
ひかりが目を輝かせた。
「なあに、朝はたらふく食べんと身が持たんぞ」
九兵衛は照れくさそうに笑った。
「……なかなか旨そうに握ってあるな」
力也がぼそりと言った。珍しく、その目が少しだけ柔らかかった。
「わ~い!ありがとう、九兵衛!」
蓬生が声を上げる。昨日よりさらに顔色が良い。
三柱と一人で、境内の石段に腰を下ろしておむすびを頬張った。朝の神社は静かで、遠くで鳥が鳴いていた。ものの十分で八つ全部がきれいになくなった。
「力也、今日の作業って何をやるの?」
ひかりが聞いた。
「"本当は"人間がやることなんだが」
力也は立ち上がりながら言った。
「誰も来やしないから、俺が"道を直す"」
「道なんて直せるの?」
蓬生が眉をひそめた。
「いくら神とは言え、力也一人でここ全部は無理だよ。ここから里の入口まで二里はあるんだよ」
確かにそうだ、とひかりも思った。山道が崩れたまま放置されているのはここだけではない。二里(約8キロ)にわたる道を、一人でどうにかするのは——
神であっても——さすがに無理がある。
「だから木々の精霊を鼓舞してもらった」
力也はそう言って、鳥居の真正面に立った。
道の方を向き、背筋を伸ばし、静かに息を整える。そして、ゆっくりと声を出した。
「木々の精霊たちよ、どうか……私にお力添えをいただきたい」
三拝。三拍手。一拝。
その瞬間だった。
穏やかだった木々のざわめきが、一気に強い風に変わった。葉が激しく揺れ、参道の砂が舞い上がる。ひかりは思わず目を細めた。
力也を見ると——凄まじいオーラだ。
神気が、みちみちていた。まるで見えない壁のように、力也の周囲に満ちている。ひかりでさえ、一歩踏み出すことができなかった。
力也はそのまま、祝詞を口ずさみながら崩れた道の方へ歩き出した。
その時、
地響きが鳴った。
土砂が崩れていた場所から、流木や岩がまるで弾き出されるように脇へはけていく。むき出しになった地面に、土砂の中から小さな石が次々と現れ、隙間なく敷き詰められていく。石と石の間を、土砂から滲み出た土が流れ込み、固めていく。
あっという間だった。
気がつくと、道が通っていた。
苔むし、草が生い茂り、土砂に飲まれていた山道が——きれいに、整然と、里へと続いている。
「すごい……」
ひかりは呆然と呟いた。
さすがは"力の神"だ。
蓬生と九兵衛は、声も出なかった。ただ、その目に涙が浮かんでいた。
目の前に通っているのは、あの頃の道だ。子どもだった九兵衛が駆け回った道。蓬生が参拝者の足音を聞いていた道。"あの日の道"が、そこにはあった。
ひかりは呆気にとられながらも、ふと力也の方を見た。
力也も立ち尽くしていた。
だが——何かがおかしい。
「力也っ!!」
ひかりが叫んだ。
力也から神気が消えていた。いや、消えているどころではない。その姿が——しおれていた。肌の色が失われ、体の輪郭がどこかぼやけている。まるで、乾ききった何かのように。
「大丈夫!?」
「あぁ、なんとか……」
なんとか、というレベルではなかった。神気を使い果たした神がどうなるか——ひかりは知っていた。人間で言えば重度の脱水症状。いや、それどころではない。このまま放置すれば、存在が薄れていく。
「これはまずい」
蓬生の声が変わった。さっきまでの子どもっぽさが消えて、静かで鋭い声になった。医療と医薬の神の、本来の顔だ。
「すぐに生薬と御神酒が必要だ!!」
力也をその場に座らせ、蓬生は素早く状態を確かめる。しかし、次の瞬間、その顔が曇った。
生薬がない。御神酒もない。
当然だ。何十年も参拝が途絶えていたこの神社に、それらがあるはずがない。
「どうしよう」蓬生が焦る。
「わしが里へ行って持ってこよう」
九兵衛が立ち上がった。
「でも……」蓬生が言いよどんだ。「神が重症って言っても、信じてくれる人間なんているの?」
「それは……」
九兵衛も黙った。確かに、そうだ。神が倒れた、と言って薬草を持ってきてくれる人間が、今の里にいるかどうか。
「とりあえず、これ使って」
ひかりが懐から小さな瓶を取り出した。
「これは?!」
「非常時携帯御神酒」
蓬生は一瞬ぽかんとしたが、すぐに受け取った。
「ありがとう!これがあれば"延命処置"はできる!」
力也の口元へ、ほんの少しだけ御神酒を注ぐ。その場しのぎにはなる。しかし、回復するには全然足りなかった。
御神酒はともかく、生薬となる薬草が無い。蓬生が眉をひそめ、九兵衛が頭を抱え、ひかりが唇を噛んだ。
その時だった——
「そこの"神々"よ―――これを、使え」
!?
―――第7話へ続く。




