第5話「九兵衛」
祭りを復活させると言っても、まず最初の壁は道だった。
山道が崩れている。それどころか土砂崩れがそのままになっている場所もある。あの状態では、里の人間が神社まで辿り着くことすらできない。
「どうにかする」
力也がぽつりと言った。
「どうにかするって」ひかりは眉をひそめた。
「これは力也でも時間がかかり過ぎるよ。一人じゃ無理だって」
力也は黙った。それはそうだ、と内心では思っていた。
しばらく考えてから、力也はひかりを見た。
「うずめ、神具持ってるよな」
「持ってるよ」
「広げてくれ」
ひかりは風呂敷包みを下ろし、境内の地面に神具を並べ始めた。出てくる出てくる。神楽鈴、扇、舞を舞うときに纏う衣装、かんざし、細かな装飾品の数々――躍りの神らしく、実にたくさんだ。蓬生が目を丸くして見ていた。
「これで」力也が言った。「この山にまだいる精霊や地の神、神社の眷属の力を鼓舞する舞を舞ってくれないか。ついでに俺の力も鼓舞してくれ」
「えぇ!?」ひかりが顔を上げた。「そんな急に言われても……」
一拍置いて。
「いいよ」
蓬生は心の中で叫んだ。えぇ!?急に言われてできるの!?
しかし、さすがは芸能と躍りの神だ。ひかりはそんな蓬生の心配をよそに、黙々と準備を進め始めた。衣装を確かめ、鈴を鳴らし、扇の具合を確かめる。その手際は迷いがない。
「蓬生、本殿の中、使っていい?」
蓬生は少し困った顔をした。
「いいよ。……汚いけど」
「ありがとう!」
本殿の前に立ったひかりは、足を止めた。
「……うっ」
「大丈夫!?」蓬生が声を上げた。
ひかりは眉をぎゅっと寄せて、それでも前を向いた。
「平気……なんとか、舞ってみる……」
神は"汚れ"が苦手だ。何故なら汚れは「穢れ(けがれ)」そのものだからだ。蓬生自身、もう何年も本殿に入れていない。汚れが本殿への入口を塞いでいる。神は汚れに触れることができない。だから掃除もできない。本来ならば、神職や地域の人々が毎日掃き清め、雑巾がけをして、初めて汚れという名の「穢れ」が消える。綺麗に保たれた本殿にだけ、神は入ることができる。
長年誰も来なかったこの神社の本殿は、その穢れが幾重にも積み重なっていた。
ひかりの顔から血の気が引いていく。このままでは舞う以前に、ひかり自身の神気が削られていく。
「無理するな」力也が低い声で言った。「出来そうにないなら、俺が神気を最大限出して道を回復させるだけだ」
「それこそ無茶だよ」ひかりが力也を振り返った。「力也が消えちゃう」
神の"消える"とは、力が尽きることだけではない。存在そのものが消えるということだ。功績も神気も、そして名前も。この数十年の間に、どれだけの神がそうして消えていったか。誰も数えていない。数えられなかった。
重い沈黙が、境内に落ちた。
力也が静かに神気を出し始めたその時だった。
「大丈夫か?旅の者よ」
声がした。
鳥居の方を見ると、一人の人影が立っていた。
里のお爺さんだった。
「おじいさん、どうしてこちらに?」
ひかりが驚いて尋ねると、お爺さんは少し照れくさそうに頭をかいた。
「神社の話を聞いてな、久しぶりに来てみようと思って。それで、そこの子は……」
お爺さんの目が、蓬生に向いた。そこで止まった。
ひかりは内心、焦った。ひかりは人間と話せるように人の気を纏っている。しかし蓬生は違う。そもそも人の気を纏えるほどの神気が残っていない。人間の目には見えないはずだった。
「この子はその……たまたま……」
ひかりがどうにか誤魔化そうとした、その時。
「もしかして、九兵衛くん!?」
蓬生が立ち上がった。
「やっぱり、蓬生くんか!?」
「久しぶりだぁ!何年、いや何十年ぶりかな!?」
「蓬生くんこそ……会えて良かった……」
お爺さん――九兵衛は、涙を流した。蓬生も泣いていた。神と人だから直接触れ合うことはできない。それでも確かに、抱き合った。
ひかりは目を丸くしたまま、その様子を見ていた。
「知り合いか?」力也が言った。
「そう、そうだよ!いつも神社に遊びに来てくれて、お掃除もしてくれてたんだ!」
蓬生は今まで見たことがないくらい目を輝かせていた。力こそ弱々しかったが、その眼差しにはまさに「少名毘古那神」の神気が宿っていた。
「そこの男も旅人か?」
九兵衛が力也を見た。
力也が、珍しくびくりとした。
ひかりは笑った。力也が頬をわずかに赤らめる。力也もまた人の気を纏っていなかった。見えるはずがない。なのに九兵衛には見えていた。
「昔からな、色々見えとるんじゃ」九兵衛は静かに言った。「そのせいで周りからはからかわれた。友人と呼べる友人もいなくてな。だからいつもここに来ていた」
しばらく誰も口を開かなかった。
「そうか、じいさん」力也が言った。「悪いが本殿の中、掃除できるか」
「九兵衛だって!」
蓬生が少し咎めるように言った。久しく会えなかった"友人"にじいさん呼ばわりが気に食わなかったらしい。
そのやり取りを見て、ひかりは胸の奥が少しほぐれた。
出会った頃は消えかけていたのに。
「あぁ、九兵衛、すまなかった」力也は珍しく素直に謝った。「それじゃあ九兵衛。改めて、本殿を掃除できるか?」
「あぁ、できるとも。ぜひやらせてくれ」九兵衛は境内の隅を指差した。「実はあそこに物置がある。掃除道具が入っていたはずじゃが、使えるかどうかは分からん」
見ると、本殿から少し離れたところに小屋があった。長年の風雨にさらされた引戸は、もはやほぼ朽ちかけている。
ひかりは思いっきり引いた。
バキッ。
引戸が外れた。壊れた。
ひかりは申し訳なさそうな顔で振り返った。
「ごめんなさい!」
「いいんじゃ、いいんじゃ」九兵衛が笑った。「むしろ開いてよかった」
中には古びた竹箒、雑巾、草を刈る鎌など、たくさんの掃除道具が詰まっていた。
「使えそうじゃのう。雑巾がけはちと大変だから、まずは箒で本殿の中を掃くとしよう」
「お願いします!埃がなくなれば雑巾がけは何とかできますから」続けて言った。「"私たち"でやりますね」
力也が小さく首をかしげた。
(私たち?)
「僕も手伝うよ!あのときみたいに」
蓬生が立ち上がった。
こうして、九兵衛と蓬生とひかり、そして力也で本殿の中を掃除した。
「こういうのは普通、人間がやるものだろ」
力也が言った。
「まあまあ、いいじゃない。たまには」
「そうだよ」
埃が舞い、竹箒の音が本殿中に響いた。何十年も積もった汚れが、少しずつ、確かに落ちていく。
やがて、本殿の中が見違えるほど綺麗になった。
「よし!これで舞えるぞ!」
ひかりが両手を合わせた。
「おう、周りの鼓舞を頼む」
力也が静かに言った。
数十年ぶりに清められた本殿の中で、ひかりは舞い始めた。
天鈿女命の神気を帯びた舞は、最初は静かだった。鈴の音が本殿に響き、扇がゆっくりと弧を描く。しかし次第に、その動きは大きくなっていった。
さっきまで静まり返っていた木々が、ざわざわと揺れ始めた。精霊たちが顔を出し、山の気配が動き始める。
「さすがだな」力也がぽつりと言った。「神気が上がってきた」
まるで神秘的な巫女のような、美しい舞だった。
蓬生の神気が、みるみるうちに上がっていく。顔に色が戻り、細い手足にわずかな力が満ちていく。
舞が終わった。
「ありがとう!うずめさん! ありがとう九兵衛! ……ついでに力也もありがとう!」
間があった。
「…………!!」
力也の眉がぴくりと動いた。
「さん、だろ。しかも"ついで"か」
ひかりが声を上げて笑った。
こうして蓬生は力を取り戻した。といっても、すべての力が戻ったわけではない。蓬生が今出せる最大限の神気をひかりが鼓舞して、ようやく引き出せた分だけだ。
「無理はしちゃダメだよ」ひかりが蓬生に言った。「無理したら、あとで大変なことになるからね」
「はーい」
二つの声が重なった。力也も一緒に答えていた。
「……力也まで」
「なんだ」
「いや、なんでもない」
ひかりは九兵衛の方を向いた。
「九兵衛さんもありがとうございます。お祭り、絶対復活させましょうね!」
「そうだねぇ」九兵衛は境内を見回した。綺麗になった本殿、揺れる木々、その奥の山道。「わしも、もうひと踏ん張りするかのう。でも道はどうするか」
「それは俺に任せろ」
力也が静かに、しかし迷いなく言った。
境内に夕暮れの光が差し込んでいた。長い一日だったが、神社はたしかに、来たときより少しだけ明るく見えた。
ただ、神気が回復するにはまだまだ時間がかかりそうだ。
ーーー第6話へ続く。




