第4話 「祈りと"マツリ"」
翌朝、ひかりは一人で里へ向かった。
神社に残った力也に「すぐ戻る」と告げると、「急ぐな」とだけ返ってきた。蓬生は昨日よりも少しだけ顔色が良く見えた。気のせいかもしれないが、ひかりはそう思いたかった。
里はすでに朝の支度で賑わっていた。かまどの煙が空へ立ち上り、鶏が騒がしく鳴いている。昨日のお爺さんは、縁側でお茶を飲んでいた。
「また来たか」
「昨日はありがとうございました。今日も少し、聞いてもいいですか?」
お爺さんは湯呑みを置いて、ひかりに縁側の端を勧めた。
「あの神社のことを、もっと詳しく聞かせてもらえますか?」
お爺さんはしばらくひかりを見てから、ゆっくりと口を開いた。
「……何から話そうかな」
湯呑みを両手で包み、遠くを見るような目をした。
「わしが子どもの頃はな、あの神社はもっと立派だったよ。鳥居も朱色に塗られてて、石畳もちゃんと整っていた。参道には常に花が供えられてて……今とは全然違う」
「参拝する人も多かったんですか?」
「そりゃもちろん。病気の時、怪我をした時、子どもが生まれる時。何かあればあの神社へ行くのが当たり前だった。薬の神様だからな。ありがたい神様だと、みんな思っていた」
それから、お爺さんは祭りの話を始めた。
秋の収穫が終わると、里中が祭りの準備で活気づいたという。参道には様々な屋台が立ち並んだ。焼いた芋、甘い飴、竹細工。子どもたちは朝から境内を走り回り、大人たちは久しぶりに顔を合わせた隣の集落の者と酒を酌み交わした。里一番の催し物だった。
「御神輿は出なかったんですか?」
「出なかった」お爺さんは首を振った。「あの神社には御神輿がなかった。その代わりに、もっと大事なものがあった」
それが、「祈りの儀」だという。
祭りの最初、本殿の祭壇に生薬と御神酒が供えられた。甘草、芍薬、葛根――山で丁寧に採られた薬草たちと、里で仕込まれた御神酒。それを祭壇に並べ、宮司が祝詞を上げる。一年の無病息災への祈り、里の安寧への願い、そしてこの一年を無事に過ごせたことへの感謝。それが、「蓬生神社」の祭りの核だった。
「薬の神様だからな」お爺さんはまたぽつりと言った。「病気にならずにいられるのも、怪我が治るのも、あの神様のおかげだと、みんな思っていた。だから、ちゃんとお礼をしていた」
ひかりは静かに聞いていた。
「それが……変わったのですか」
「五十年ほど前になるか」お爺さんはお茶を一口すすった。「里の近くに病院ができた。医者がいて、薬があって、怪我も病気もそこへ行けば治る。山まで生薬を採りに行かなくてもよくなった。ありがたい話だよ。本当に、ありがたい話なんだ」
しかし、と続けた。
「次第に、神社へ行く者がいなくなった。病気が治っても、誰に感謝するでもなく。それが当たり前になっていった」
縁側に、静かな風が吹いた。
「祭りも、いつの間にかやらなくなった。誰かが止めると決めたわけでもない。ただ……気がついたらなくなっていた」
ひかりはしばらく黙っていた。
誰かが悪いわけじゃない。病院ができたのは良いことだ。薬が身近になったのも良いことだ。ただ、その陰で、忘れられていったものがある。感謝の場所が、祈りの形が、静かに消えていった。
それでも。
「お爺さん」ひかりは顔を上げた。「お祭り、もう一度やりませんか?」
お爺さんが目を丸くした。
「……祭りを?」
「はい」
お爺さんはしばらく黙った。湯呑みを両手で包むように持ち、縁側の先の山を見た。
「うーん……」
低い声が、長く続いた。
「五十年も前のことだ。もうやり方を覚えている者もいない。祭りを仕切れる宮司もいない。あの道も崩れたままだし……難しいだろうな」
ひかりは何も言えなかった。すぐに「そうですか」と引き下がることも、「でも」と食い下がることもできなかった。ただ、もう一度だけ神社のある山を見て、静かに立ち上がった。
「今日もありがとうございました」
お爺さんは少し複雑そうな顔で、小さくうなずいた。
神社に戻ると、力也が鳥居の前に立っていた。蓬生は境内の隅に座り、膝を抱えている。
「どうだった」力也が聞いた。
「昔ね、ここでお祭りをしてたんだって」ひかりは蓬生の隣にしゃがみながら言った。「祈りの儀っていう儀式があって、生薬と御神酒をお供えして、一年の感謝と無病息災を祈るお祭り」
蓬生が顔を上げた。大きな瞳に、かすかな光が揺れた。
「…知ってる。覚えてる」
「蓬生も覚えてるんだね」
「うん」蓬生は小さくうなずいた。「甘草の匂い、好きだった。葛根は苦くて、子どもたちがよく顔をしかめてた」
その声は柔らかかった。遠い記憶を手繰り寄せるような、穏やかな声だった。
ひかりは力也を見上げた。力也は腕を組んだまま、静かに待っている。
「あのお祭りが戻ってきたら」ひかりはゆっくり言った。「蓬生の力も戻ってくると思う」
力也は答えなかった。ただ、山の向こうに広がる里の方をじっと見た。
さて、どうしようか。
朽ちた鳥居の下で、二柱の神は考えた。五十年分の空白を、どうやって埋めるか。忘れさられた祭りを、どうやって取り戻すか。
簡単ではない。でも、だからといって諦める理由にもならなかった。
ーーー第5話へ続く。




