第2話 「神気の消えた道で」
東へ向かう道は、思ったより長かった。
人里を抜け、田んぼのあぜ道を過ぎ、杉並木の中をしばらく歩くと、山の気配が濃くなってくる。空気がひんやりと湿り気を帯び、遠くから鶯の声が聞こえた。
「…静かだね」
ひかりがぽつりと言った。
「山はいつも静かだ」
「そうじゃなくて」ひかりは足を止めずに続けた。「神気が薄い。道中ずっとそう思ってた」
力也も黙って周囲を感じ取る。確かに、そうだ。本来ならこういった山道には、木々の精霊やら小さな地の神やらがそこかしこに息づいているものだ。しかし今は、まるで水が引いたあとの川床のように、がらんとしていた。
「急ぐか」
「うん――あっ」
ひかりが突然立ち止まった。
道のわきに、古びたお社があった。
鳥居は苔むして、元の色がわからないほど緑がかっている。石畳は割れ、隙間から雑草が伸び放題だ。注連縄は半ば朽ちて垂れ下がり、扁額に書かれた文字も、風雨に削られてほとんど読めない。
それでも、かろうじて鳥居の形をしていた。
「…寄ってみる」
「山神のところへ急ぐんじゃなかったのか」
「ちょっとだけ」
ひかりはそう言って、鳥居をくぐった。力也はひと呼吸おいてから、その後に続いた。
玉砂利はとうに土に埋もれ、足元は柔らかい地面だった。社の前まで進むと、ひかりは手を合わせようとして――気がついた。
社の影に、何かいる。
小さな、人の形をした何かが、社の柱にもたれてうずくまっていた。
「…ねえ、力也」
ひかりが小声で呼んだ。力也はすでに気づいていて、ひかりの隣に立っていた。
二柱がそっと近づくと、それは小さな男の子だった。
年は七つか八つほどに見える。着物はくたびれ、髪はぼさぼさで、頬はこけ、手足は細い枝のようだ。目を閉じて、膝を抱えてうずくまっている。
「ねえ」
ひかりがそっとしゃがんで、声をかけた。
男の子がゆっくりと目を開けた。大きな瞳が、ひかりを見上げる。
「…だれ」
「旅の者だよ。あなたは?」
男の子はしばらくひかりを見つめてから、かすれた声で答えた。
「…蓬生。少 蓬生」
その名を聞いた瞬間、ひかりと力也は目を見合わせた。
少 蓬生。人の世での名だ。だが、その神気の質は隠しようがない。この子の本当の名は―― 少名毘古那神。医薬と醸造を司る、古くから名の知れた神だ。小さな体に大きな知恵を持つと言われる、あの神が。
こんなにも、やせ細って。
「蓬生、いつからここに?」力也が静かに聞いた。
「…わからない。ずっといる」
「一柱で?」
蓬生はこくりとうなずいた。
「お参りに来る人が、いなくなった。お供え物も人間の"祈りの力"も底をついちゃった。だんだん、体が動かなくなって…ここから出られなくなった」
ひかりは胸が痛くなった。
人に忘れられた神は、力を失う。それは知っていた。でも、こうして目の前で見るのは――こんなに小さな子の姿で見るのは、とても耐え難かった。
「蓬生」ひかりは努めて明るい声で言った。「わたしたち、今ちょっと旅をしててね。神々の力が弱ってる原因を調べてるの」
「…それって」蓬生がぽつりと言った。「ここだけじゃないんでしょ。小さな神社から、どんどん廃れていってる」
力也が眉をひそめた。「何か知ってるのか」
「だって、聞こえてくるから。遠くの神様たちの声が。みんな同じだって。人が来なくなって、忘れられて…力が無くなっていくって」
境内に、風が吹いた。朽ちかけた注連縄がゆれた。
ひかりは蓬生の細い手をそっと握った。冷たかった。神の体温とは思えないほど、冷たかった。
「ねえ蓬生、少しだけ待ってて。絶対にどうにかするから」
蓬生はひかりの顔を見た。大きな瞳に、かすかな光が揺れた。
「…ほんとに?」
「ほんとに」
ひかりは笑った。踊りの神らしく、迷いのない、まっすぐな笑顔で。
力也は社の前に立ち、腕を組んだまま静かに考えていた。山神のところへ向かう足は、もうしばらく止まりそうだった。
小さな神社の境内で、二柱の神は思った。原因を探す旅のはずが、もう目の前に、助けを必要としている神がいる。
どうにかしなければ、と。それだけは、確かだった。
ーーー第3話へ続く。




