第1話 「旅のはじまり」
朝の神域は静かだ。
人間で言えば早朝にあたる時刻、うっすらと紫がかった空の下で、ひかりはぼんやりと自分の足元を見ていた。草履の鼻緒が、少しゆるい。旅に出るというのに、初っ端からこれか、と思った。
「遅い」
低い声がした。
顔を上げると、鳥居のそばに力也が立っていた。腕を組み、不機嫌そうな顔で――
といっても力也はだいたいいつもこういう顔をしているので、ひかりはもう慣れっこだ。
「遅くない、あなたが早すぎるだけ」
「約束の刻より半刻は過ぎている」
「それはあなたの体内時計がおかしいんじゃない?」
力也はため息をついた。大きな体から出るため息は、どこか風が木々を揺らすのに似ている。
「……荷物はそれだけか」
ひかりが背負った風呂敷包みは、一見こじんまりして見える。が、神の荷物というのは見た目にはよらないもので、中には着替えから神具から非常食まで、きっちり必要なものが詰まっていた。
「うん。力也は?」
「俺は元々持ち物が少ない」
確かに、力也の手には小さな巾着一つしかない。ひかりは首をかしげた。
「着替えは?」
「一組ある」
「一組って……どのくらいの旅になるか、わからないんだけど」
「必要になれば調達する」
この男はいつもこうだ、とひかりは思った。大雑把なのか合理的なのか、判断に悩む。ただ、一緒にいる時間が長いせいで、なんとなくわかってきたことがある。力也は、先のことをあまり心配しない。今必要なことを、今やる。それだけだ。
ひかりとは、そこが正反対だった。
「それで」と力也が言った。「どこへ向かう」
ひかりは懐から一枚の紙を取り出した。くたびれた紙に、いくつかの地名と神々の名が書き連ねてある。
「まずは東から。この前、東の山神様から文をもらったの。『力が出ない、足腰が弱った』って。……直接話を聞いてみようと思って」
「山神か」力也が目を細める。「あの頑固じじいが、弱音を文にしたのか」
「そう。だから、よっぽどのことだと思う」
しばらく、二柱の間に沈黙が落ちた。
遠くで小鳥が鳴いた。朝露が草の葉先で光った。どこかから、飯を炊く匂いがした。人間の里はもう起き出している。
「……行くか」
力也が先に歩き出した。大股で、迷いなく。
「ちょっと待って、鼻緒が」
「後で直せ」
「今直したい!」
ひかりはぺたりとその場にしゃがみ込んで、草履の鼻緒を結び直した。力也は五歩ほど進んだところで立ち止まり、振り返らずに待っている。
ひかりは立ち上がって、小走りで追いついた。
「ねえ、力也」
「なんだ」
「絶対に原因、見つけようね」
力也は前を向いたまま答えなかった。ただ、少しだけ歩く速度を緩めた。ひかりが隣に並べるくらいに。
それが力也なりの「ああ」だと、ひかりにはわかった。
二柱の神は、人里へと続く坂道を下りていった。神域の鳥居が、朝日を浴びて静かに光っていた。
旅は、こうして始まった。
大げさでもなく、けれど確かに。
ーーー第2話へ続く。




