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春を告げる。  作者: 高安那知
第一部
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三十一

「……目が良い自信はあるが、鼻が利かないのはまずかったな。あやつの力を手に入れることができると思ったんだが、ただの人間ならば、さて、どうするか。だがしかし……そうだな。一思いに殺して喰べるか、部位を一つずつ削ぎ落として喰べるか……」


 あやかしが考え込む。この隙に逃げようかと思うけれど、恐怖で体が動かない。


(逃げないといけないって分かってるのに、足がすくんで立ち上がれない……)


 奈々世がもたついているうちに、あやかしはそんなに悩むことなく、決断を下す。白い人形のような手が、とてつもない早さで奈々世の喉元に向かって伸びてくる。長くて鋭敏な爪が奈々世の首元めがけて飛び込んできて、奈々世の首は掻っ切られたと思う。でも、確かにそうだと言い切ることはできなかった。掻っ切られたと思った瞬間、目を開けてられないと目を瞑って、次に開いた時、視界は白く覆われていた。ただ、今の奈々世の視界は、真っ白だ。


(真っ白だ。何もない。初めてこの世界に来た時みたいだ)


(自分、死んだのかな……生きてる?分からない)


(……もし自分が死んでたとしたら、向こうでは、一生行方不明者か。父さんと母さん、突然消えてずっと帰ってこなくて、心配したり哀しがったりしてくれるかな)




『じゃあ仕事行ってくるから。もし酷いようなら自分で病院行けるよね?』


『38度あったよ』


『そう。寝てればそのうち治るでしょ。あ、お金は置いておくから、食べ物は自分で買うか、無理ならカップラーメンでも食べて』


『母さん』


『何?もう出なきゃいけないから手短にして』


『……ううん、なんでもない』




『河上さん、ご両親迎えに来られそうにないっておっしゃるんだけど……』


『……じゃあ、自分で帰って、病院行きます』


『でも、足とても痛いんでしょ?骨折しているかもしれないし……』


『大丈夫です。タクシー使うので』




(……高熱が出たり病気したりしても、怪我しても、心配されたり看病されたりしたことなんてない。仕事を休んで駆けつけてくれることの方が珍しかった)


(褒められたことも叱られたことも全然ないし、自分の食事とか学校のことも母さんたちは全然知らない。学校行事もほとんど来なかったし、入学式と卒業式も来てくれないかどっちか一人だけだった。いつも家にいなかったし、帰ってきても、またすぐ出ていくか、休んでて話せなかった)


(……それだけじゃなくて、話す時の態度とか声色とか言葉とか、父さんと母さんは、自分に興味がないって分かる)


(……自分がいなくても、きっと二人は平気だ。分かってるくせに。期待するのはもうやめたのに、今更期待するなんて)


(生活に困ったこともないし、好きなこともさせてもらえてた。自分は恵まれてると思う。でも……)


(大切にされてるって思えなかった)


(……それでよかったのかな)


(友だちだって別にいないし、哀しむ人がいないのはむしろいいことかもしれない)


(ちょっと辛いけど……)


(でも、もしかしたら千鶴たちは責任感じて、哀しがるかな……自分が死んだら、千鶴たちに迷惑かかるかもしれないし)




『だから、近くで見張って、千鶴って面白いって思わせてみせるよ』



『……ありがとう』



『今回は、三人じゃ難しかったかもしれない。踊ってくれて助かった』



『いえ』



『……うれしいから。でも、うれしいって言うには痛いから、涙が出る。傷口に薬を塗ると、しみて痛いのと似てる』




(みんな優しかった。みんなのせいにならないといいけど)


 千鶴たちのことを思い出して、なぜか胸がずきりと痛んだ。


(……あれ、なんで辛いんだろ……)




『そうか。ならば、気をつけて。いってらっしゃい』



『一緒にいるよ』




(……もしここにいたら、分かれたのかな。誰かを大切にして、その人から大切にされること)


(知らないまま死ぬのは、なんか、かなしいな……)


「なせ、奈々世……!!」


 幻聴か、誰かが自分を呼ぶ声がする。


「奈々世!!」


 今度は確かに聞こえた。幻聴ではない。何の感覚もしなかった自分の体に、突然肩を揺さぶられている感覚が襲う。それに意識が強く引っ張られた後に、瞼をゆっくり開くと、そこにいたのは、自分の首を掻っ切ったかもしれないあやかしではなく、美愛と郁だった。目の前の景色も、白ではなく、先ほどと完全に同じ場所だった。


(死んでなかったんだ……)


 生きていて安堵しながら、自分の肩をさする。冷静に考えれば、首を切られたのに痛みを感じないはずはない。奈々世は、なぜか助かったのだ。


「奈々世っ!!よかったー!!無事だったのね!」


 奈々世が目を開くなり、美愛は涙ぐみながら抱きついてきた。美愛は、地面に広がる大量の血と散り散りになったいくつも人の体の部位を目にした後だ。無理もない行動だった。


「なんで泣いてるの?」


「だって、奈々世は大切な友達だもの。心配するのは当たり前でしょ。はーー無事でよかった」


「たい、せつ……」


「……泣いてる」


「え!?どうしたの?」


 二人の顔を見て、郁が言った「泣いてる」は自分を見ての言葉だったことに、奈々世は気づいた。


「……え、あれ、どうしたんだろ……はは、やば、止まんない……」


(大切って言われて、すごい苦しい。苦しいくらいに胸が痛くて、張り裂けそう。今まで心配されたことなんてなかったし、それが当たり前だった。母さんも父さんも、自分にさして興味なかったのも。不自由なく暮らせてるし、好きなことだってできる。それなのに贅沢かもしれないけど、ずっと大切にされたかった……見てほしくて必死だったけど、美愛は、何もしなくても大切だって言って、心配して自分のために泣いてくれる。痛いほど、優しくて、訳が分からなくて、涙止まんない)


「中峰が抱きついたのが嫌だったんじゃない」


「え、ごめん!触られるの苦手だった!?」


 奈々世は心の中にしみていくあたたかい痛みが現実だと確かめるように、弱い力で美愛の背中に手を回した。


「違う……そうじゃない……だから、美愛、もう少しこのまま……」


 こぼれ落ちた今の感情のかけらを隠すように、美愛の肩口に額を当てた。いつぶりかもわからない人肌は酷く温かく、なぜだか余計に涙が止まらなかった。


「……ええ。そばにいるわ」


 いつもまっすぐ通る美愛の声は、酷く優しく奈々世の耳に響いた。

読んでくださりありがとうございます。

(みんな優しかった。みんなのせいにならないといいけど)の部分の前に回想しているクラスメイトたちの言葉ですが、本編に出てきている中で、それぞれの人について、奈々世の印象に残っている記憶です。上から、千鶴、美愛、郁、杏花、涼です。渉と和泉に関しては、本編中から、奈々世にとって印象深い場面を引用できなかったので割愛しましたが、二人についても奈々世の中には印象に残っている記憶があります。

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