十四
校舎へ着いて教室へ入ると、美愛が自分の席に腰かけていた。奈々世が教室の扉を開けた音に反応し、美愛は顔を上げる。
「おはよう。いつもより早いのね」
「まぁ、うん」
「千鶴は一緒じゃないの?」
「今日は一人で来た」
美愛は「そう」と呟くと、美愛の隣の席の椅子を軽く叩く。
「隣、座ったら?」
眼差しは柔らかいのに、どこか勝気さののぞく笑みを湛える美愛に促され、奈々世は美愛の隣に座った。隣に腰かけると、美愛の手元にある紙が奈々世の目に留まった。それに気がついたのか、
「これ、昨日祓ったあやかしについての報告書。今、まとめてるのよ」
と、美愛は紙の縁を人差し指でなぞった。
「あー報告書……成功した時は書くんだっけ」
「ヨウキョウビト全体を取り仕切ってる本部に学校から提出したり、成績をつけるのに使ったり、とにかく記録しておく必要があるんですって。どうせ千鶴も郁もやらないだろうし、怒られたくないから、早めに提出しようと思ってやってるの」
美愛は、愚痴っぽくそうこぼす。
「それにしても、昨日はありがとう」
「ああ、うん。全然大したことじゃないけど」
奈々世のその言葉に、美愛は首を横に振った。「そうじゃないの。なんて言ったら……」と、意図したことが上手く伝えられなかった美愛は、困ったような顔をする。少し黙り込んだ後、美愛は意を決したような表情を浮かべ、口を開いた。
「奈々世だから言っちゃうけど、ほんとはヨウキョウビトになんかなりたくなかったの。わたしが進路決める頃って、ちょうどツカサビトが現れて一年くらいだったのよ。だから、ツカサビトがいるなら、ヨウキョウビトなんていらないでしょって思ってた。でも、この学校に入って、任務を重ねるうちに少しずつ考えが変わっていったの。今は、前よりは少し前向きよ。でも、時々ね、やっぱり恐くなるの。この道を歩んでくこと……あやかしも、いつまで経っても得意になれそうにないしね。でも、何も知らない世界にきて、すごく色んなことがあるはずなのに、あやかしを引きつけてる奈々世を見て、勇気をもらえたの。あの時、ストレートを打ち込めたのは、きっと奈々世の姿が大きいわ。ありがとう。って、長くなっちゃったわね。でも、さっきのありがとうは、こういう意味よ」
「うん。でも、自分何もしてないけど……」
「何かしてもらったから、勇気が出たんじゃないの。勝手にがんばっててすごいなと思って、勇気をもらっただけよ。奈々世が自分でがんばってると思ってなくても、わたしの目にそう映って、勇気が出たの。だから、お礼は素直に受け取りなさい!」
「わ、分かった」
たじろいだ奈々世に、美愛は愉快げに「ふふっ」と笑いをこぼした。
「でも、美愛もすごいよ」
「え?」
「あやかしのことで怖い思いしてトラウマなのに、向き合おうとしてる。苦手なことに向き合って、一生付き合っていこうとするってすごいよ」
「普通よ。苦手なことにまっすぐ向き合える人がすごいの。わたしは勇気がいるわ」
「でも、自分からしたらすごいよ」
「……ありがとう」
美愛は、度肝を抜かれたかのような驚きを表情に宿したが、やがて目と唇が柔らかく弧を描き、閑麗な微笑みを浮かべ、お礼をした。美愛の眼差しは、奈々世の存在を包み込んでくれているような錯覚を起こしそうなくらいに、非常に清らかで優しかった。
(こんな笑顔向けられたの、すごい久々な気がする)
奈々世は、自分に向けられた優しい温度の瞳に、驚きと困惑を感じた。自分のことをまっすぐじっと見つめて話してくれたこと、柔らかな眼差しをもらったことは、いつぶりか分からず、なぜか泣きたいような気持ちにさえなった。もしここで涙が出たとして、その涙が、喜びからあふれるものなのか、苦しさからこぼれるものなのかは、分からなかったが。
「よし!なんだかやる気になってきたわ!さくっと終わらせちゃいましょ。奈々世、あやかしの絵、描いてくれない?」
そう言われ、また思考を手放すために、違うこと、つまりは頼まれた絵を描くことに打ち込む。描き終えて美愛に声をかけると、「絵心ないわねー」とあっさり図星を突かれる。美愛がその次の言葉を発しようとした瞬間、その音は別の音にかき消されて形にならなかった。その別の音というのは、教室の扉が開く音だ。
音に反応して扉の方を見ると、扉を開けたのは、自分の知らない生徒だった。薄汚れた制服を着ている男子生徒だ。彼は、女子生徒の手を引き、ズカズカと教室の中へ入ってくる。そして、彼は、美愛の二つ後ろの席に、女子生徒を座らせ、ハンカチのような布で彼女の片方の手首を椅子に縛って固定した。その様子を見た奈々世は、朝起きてからずっと、湧き上がる不明な感情たちに頭を悩まされていたことも忘れ、心の中で「うわ……」とドン引きしていた。
「美愛さん、少しの間、見張っててくれない?」
「分かったわ」
奈々世と一緒に一連の様子を見ていた美愛は、男子生徒の頼みに頷いた。彼が「ありがとう」とお礼を言い、教室を出ようとした矢先、
「トイレ行きたい」
と、女子生徒が小さめの声で、美愛に訴えた。
「えっ!?うーん、それは仕方ないわね」
美愛は席を立ち、女子生徒の手首を解放しようとしたが、まだぎりぎり教室を出ていなかった男子生徒が、
「それ嘘だから」
と美愛が布をほどくのを制する。それを不満に思ったのか、女子生徒は「むぅ……」と口を膨らませた。美愛が「嘘なの?」と彼女に尋ねると、彼女はそっぽを向いて返事をしなかった。どうやら、男子生徒の言う通り、嘘だったらしい。
「寮でシャワー浴びて着替えたらすぐ戻るから、それまで絶対外すなよ!」
そう言い残し、勢いよく教室を飛び出して行った男子生徒を、美愛は横目で見た後、その視線を目の前に座る女子生徒に移す。
「それで、今回は何があったの?」
「サボろうとしたら呼び戻しに来たから、幻覚で撒いて、柑野川町に行った」
「柑野川!?通りで二日も戻ってこないわけね……それより、幻覚って……あやかしに借りてる力は、人に使っちゃだめじゃない」
「別に、誰も見てないから、掟を破ったところで怒られない」
ルールを破っても平然としている女子生徒に、口をあんぐりと開けて驚きを表現した美愛は、
「奈々世、勇気があるっていうのはこの子みたいなことを言うのよ」
と、奈々世に険しい顔つきで言った。
(勇気っていうより、度胸な気がするけど……)
「ていうか、この人だれ?」
「河上奈々世さんよ。ほら、編入生の話聞いたでしょ」
「そんな話してた?」
「また上の空で話聞いてなかったのね……異郷から来た編入生よ」
「異郷……どんなところ?」
「千鶴と同じところかな」
「ふーん」
涼は、まじまじと奈々世の顔を見つめる。涼は、涼に見つめられると自分も目が離せなくなるような、不思議と魅惑的でミステリアスな雰囲気をしている。
「奈々世、この子は小野寺涼さんよ」
「えっと、よろしく」
涼は、その言葉に、丁寧にゆっくりと瞬きをする形で、肯定の意を表した。
涼を紹介し終えた美愛は「あ、いけない」と我に返り、自分の席へ戻って、報告書を見る。報告書と筆記用具を、美愛の一つ後ろの席の机に置き、自分の椅子を半回転させ、涼が見える場所で報告書を書くのを再開する。涼は、終始喋ることなく、自分の机をじっと眺めていた。美愛は、時折、涼の方を見たり、一昨日と昨日のことを奈々世に確認したりしながら、報告書を書き進め、奈々世は文字で埋められていく紙を見つめていた。
しばらくすると、美愛は報告書を書き終え、ぐっと背伸びをした後、報告書と筆記用具を自分の机の上に戻した。そして、後ろの席の机に散らばった消しかすを回収し、ゴミ箱へ捨てる。その様子をなんとなく目で追っていると、ガラガラと扉が開く音がした。反射的に扉の方を振り返ると、何分か前に教室を出ていった男子生徒が入室してくる。男子生徒は、「見ててくれてありがとう」と美愛に声をかけて、涼の方へ近づく。椅子に縛りつけられていた涼の手を解放すると、
「一緒に職員室行くぞ」
と涼に強く言う。涼は、不機嫌にそっぽを向いた後、頷く代わりにゆっくりと瞬きをした。
「それなら、わたしたちも一緒に行っていい?岡先生に報告書渡したいの」
「涼さん見てたから、行けなかった?ごめん」
「急ぎじゃないから大丈夫よ」
「良かった。あ、一緒に行くのはもちろん大丈夫」
「じゃあ、奈々世も行きましょ」
「え、自分も?」
「手伝ったんだから当たり前じゃない。手伝ってもらったものを全部一人でやったみたいに提出するのは、嫌なの」
「大して手伝ってないけど」
「少しは手伝ったんだから、行くのよ!さ、立って!」
美愛が有無を言わさない態度だったので、奈々世は立ち上がる。立ち上がる時、偶然男子生徒と目が合う。
「もしかして編入生?別の世界から来たっていう」
「あ、うん。河上奈々世です」
「河上奈々世さん。僕、佐草和泉。和泉でいいよ。よろしくな」
と、男子生徒もとい和泉は、明朗な笑顔で声を上げた。和泉は、姿勢が端正で、きちっとした雰囲気をしている。
和泉とも挨拶を交わし、四人で職員室へ向かった。
まず、美愛が先に、「報告書です。奈々世さんにも手伝ってもらいました」と言い、報告書を岡先生に渡した。報告書は、和泉たちの話を聞いた後、一応目を通して確認させてもらうから待っているよう指示された。そのため、美愛と奈々世はその場に留まり、次は和泉たちが岡先生と話をする流れとなった。
「すみませんでした」
と和泉が開口一番頭を深く下げる。涼も少し遅れて、「ごめんなさい」と頭を下げた。
「和泉さんが、一昨日と昨日、公衆電話で学校へ連絡をくれたので、ある程度は把握しているつもりですが、どういうことがあったのか、ちゃんと二人の口から報告してください」
「はい。一昨日、涼さんが学校へ登校してすぐ、あやかしからの頼まれ事をするから今日は休むと学校を出ようとしたので、止めようと追いかけました。一回追いついたのですが、幻覚で撒かれて、その後、人に聞きながら涼さんの行方を追っていきました。それで、昨日の昼頃柑野川町に着いて、そこで涼さんを見つけたので、そのまま引っ張って帰ってきて、今ここにいます」
「はい、ありがとう。では、涼さん」
涼がすぐに口を開かなかったので、和泉が「ほら」と、少し責めるように眉を寄せ、涼に喋るよう促す。涼は、渋々口を開く。
「一昨日は、柑野川町につきそうになかったから、柑野川町の近くの親戚のお家に泊まって、昨日、柑野川町まで行きました」
「どうして柑野川町まで行ったんですか」
「一昨日、登校する途中で、あやかしに柑野川町までの届け物を頼まれたから、それで……」
「和泉さんが止めたにも関わらず、行ったのは?」
「早く行ってほしいって、急用みたいだったからです」
「それでは、あやかしの力を和泉さんに使ったのはどうしてですか」
「それは……ごめんなさい」
「……まず、和泉さん。涼さんを止めようと追いかけたこと、公衆電話で連絡したことは、相方として正しい判断です。でも、あなたが涼さんを見つけられる保証はなかったのだから、涼さんに力を使われた時点で学校へ戻ってきた方が、あなたの時間を無駄にせずに済みました。あなたがどんな事情であったとしても、授業は進むのよ」
「……はい」
「次に、涼さん。あやかしの頼み事は、その場で受けるのではなく、余程の緊急事態でない限りは、あやかしに、ヨウキョウビトの本部に依頼するように促すようこの前も言いました。それにも関わらず、その場で引き受け、和泉さんに耳を貸さず、柑野川町まで行ったことは深く反省してください。それから、人にあやかしの力を使ったことは、罰則が下ります。本部と小野寺家に連絡させてもらいます」
奈々世は、いつになく厳しい眼差しで叱責を並び立てる岡先生に、鬼気迫るような思いだった。一方、怒られた涼は、悪びれる様子もなく、むぅっと頬を膨らませていた。
「何か言いたいことがあるのなら、口にしてください」
涼は、岡先生の言葉に半歩下がったが、やがてはっきりと口を開く。
「先生が言ったことは、目の前に困ってる人がいるのに、ここに相談するといいですよって言って去るみたいです。すーは、そんなことしたくないです」
「したいしたくないに関わらず、定められていることよ。従ってください」
涼は、不機嫌そうにそっぽを向いた。気まずい沈黙が流れたのも束の間、
「小野寺の人の困ってる者は見捨てない精神は美徳ですけど、そんな甘い考え突き通してたら早死にしますよ〜」
と、一連の話を聞いていたのか、奈々世たちが入室した時からずっと職員室にいた別の先生が、落ち着いた声で淡々と言った。それを聞いた瞬間、涼が足早に職員室を飛び出して行ったので、和泉は「失礼しました」と頭を下げ、涼を追いかけた。「学校から出るなよ!」という和泉の声が、廊下から職員室に小さくこだました。
「あれ、怒らせちゃいました?」
とぽかんとし、苦笑いを浮かべた先生に、岡先生は鋭い目線を向ける。なぜならば、岡先生は、ルールを破ったことを咎めただけで、涼の思想まで否定するつもりはなかったのに、彼がそういった趣旨の発言をしたからだ。彼は、「あー、や、人とかあやかしに尽くすのくだらないとか思ってますけど、私情で言ったわけではないですー。ああいう他を捨ておけないところ利用されて死んだ同期が、小野寺だったので……すみません」と深く会釈した。彼なりに生徒を想った言葉だったのだろうが、涼がどう受け取ったのかは分からない。少なくとも、彼の生徒を想う気持ちは伝わっていないだろう。
「美愛さん、奈々世さん、すみません。今、目を通します。それから、これ食べていいですよ」
と、岡先生は、自分の机の上にあった箱を、奈々世たちの方へ差し出した。美愛がそれを開けると、中にはもなかが入っていた。美愛は「本当に!?」と喜びを抑えきれていない様子で言う。「慰謝料です」と岡先生が返すと、美愛はさっともなかを手に取り、口の中に入れた。
「おいしいぃ〜!!奈々世も食べてみて!」
と美愛が小箱を自分の前に差し出したので、遠慮がちにもなかを一つ受け取る。食べてみると、軽やかな皮とぎっしりとしたあんこが合わさって、優しい甘さが口の中に広がった。うれしそうにもなかを食べる美愛に、奈々世は「ほんとだ、おいしい」と返した。
二人でもなかを食べ終えて少しすると、岡先生に「問題ないわね」と言われ、無事報告書は受理された。職員室を出た美愛は、「これで、わたしたちの内申点、少し加点されるかもしれないわね」と、もなかを食べたことも相まってか、上機嫌だった。
美愛と奈々世が教室へ戻ると、涼はぼーっとしていて、和泉は教材を広げて勉強をしていた。流れでなんとなく美愛と座り話していると、そのうち他の生徒たちも登校してきた。千鶴が来た時には、「奈々世、置いていかないでよ」と少し拗ねたような口調で言われたが、千鶴の表情の働きは、相変わらず言葉を体現するには不十分だった。
やがて一限のチャイムが鳴ると、岡先生が教室へ入ってくる。
「おはようございます。本日ですが、この場にいる全員で、任務へ行ってもらいます」
「全員!?」と美愛が驚いて声をあげる。奈々世は、隣の席の千鶴に「全員ってなんか珍しいの?」とひっそり聞くと、「任務は基本、ペア2組で行くんだよね」と千鶴は小さな声で答えてくれた。確かに、一昨も、美愛たちと自分と千鶴で、二組だった。
「隣の山のあやかしから依頼がありました。長年この地を離れていた、隣の山のあやかしたちを束ねるあやかしが帰ってくるので、そのための準備を手伝ってほしいそうです」
千鶴は、続けてひそひそと、「祓うだけじゃなくて、あやかしの困り事や頼みを聞くのも任務だよ」と説明してくれた。それを聞いたことで、千鶴が前に『とにかくですね、悪いものは祓い、いいものとは仲良くし、両者が共存できるようにと活動を始めたのが"ヨウキョウビト"でした。彼らは、代償を払ってあやかしと契約することで、不思議な力を持ちました。ヨウキョウビトは、その力を使って、悪いあやかしを祓ったり、いいあやかしや人間に協力したりするなどして、あやかしと人間の共存のために昔から奔走してきました。結婚も、子どもも、全てそのために……』と言っていたことを思い出す。ヨウキョウビトは、あやかしを祓うだけじゃなく、あやかしに協力するのも仕事なのだろう。
美愛がぽつりと「それだけ?」とこぼすと、
「それだけ?じゃありません。あやかしの依頼を遂行して、あやかしとの信頼関係や友好関係を構築することも、重要な仕事です。決してお遊びだと思わないでください。これは任務です」
と岡先生はきっぱり言い放つ。
「明日の午後迎えるそうなので、今日明日は、全員で任務に当たってください。明日は、学校へ登校する必要はありません。和泉さん、涼さん、あなたたちが放課後の時間、補講を受ける気があるのなら、放課後の時間になったら隣の山から校舎へ来るように」
その言葉に、「はいっ、ありがとうございます」と和泉は頭を下げ、涼は頷いた。
「教卓の上に地図を二つ置いておくから、それを使って行ってください。妖力の強いあやかしは少ないので、涼さん、会話の補助を積極的にお願いね」
「分かりました」
涼が返事をすると、岡先生は頷き、教室を後にした。




