十三
次の日、慣れない経験をしたためかよく寝れなかった奈々世は、いつもより早く目が覚めてしまった。リビングへ行くと、薺が既にいた。A4くらいのサイズの、文字がびっしりとした紙の束に目を通している。足音で気がついたのか、
「おはよう、奈々世。朝早いな」
と奈々世に声をかける。
「うん。早く目が覚めて」
「そうか」
「朝ご飯、食べていい?」
「ああ」
奈々世は、「そっか」と呟くと、自分がいつも座る場所に近づく。テーブルの上には、薺以外の定位置に、おかずと味噌汁とお茶が並べられており、ご飯茶碗だけが、何も入っていない状態で下に向けられて置かれている。この茶碗を持って、かまどにある白米をよそう。そして席につき、「いただきます」と、奈々世は朝食を取り始める。
「薺さん、今日も早く家出るの?」
「ああ。最近は少々立て込んでいてな、早く行かなければならない」
「そうなんだ」
「弁当は玄関に置いてあるから、持って行け」
「……なんか、ありがとう。毎日ご飯作ってくれて」
「ふっ、別に大したことではない。自分の分を作るついでだ。奈々世は、料理はしないのか?」
「あー、うん。自炊とか面倒だし、いつもてきとうに済ませてた」
「一人暮らしだったのか」
「そういうわけじゃないけど、基本お金置いとくから、それでご飯済ませてっていう感じだったから。ずっと」
「そうか……奈々世、次早起きした時は、朝食作りを手伝え」
「え?」
「作り方を教えてやる」
「いや、別にいいけど……」
「覚えておいて損はない。それに、働かざる者食うべからずだ」
「そういう言葉、この世界にもあるんだね。……うん、作ってもらってるし、早く起きた時は手伝うよ」
薺はその言葉に頷き、また紙に視線を戻し、奈々世は黙々とご飯を食べ進める。いつも静かな部屋で、ご飯を食べていた。しかし、今は、静かでも人がいて、目の前の人が作った出来たてのご飯を食べている。お腹が満たされ温かくなると同時に、お腹の中で入ったものがかき混ぜになってぐるぐるとするような不快感を味わう。昨日から、現在と過去が境界を失くして、頭の中でぐにゃぐにゃと交わりながら、心を支配している。その気持ちの悪い感覚を手放そうと、頭を軽く振り、目の前の食事に集中した。あっという間に食べ終え、食器を洗う。
「……学校行こうかな」
「もう行くのか?」
「うん、千鶴起きてこないし」
薺と千鶴、それに学校の人たちも、温かく迎え入れて接してくれているのに申し訳ないことだが、奈々世は、人といることに少し疲れが溜まっていた。人との関わりも、学校生活も、いつもと急激に変わり、まだその変化についていけていない、つまりは環境の変化にまだ追いつけていない部分があった。加えて、あたたかくてふわふわしたものと、冷たくてとても固いものを同時に口に詰め込んでいるような、感情が渦巻く感覚が自分を蝕んでいる。少し一人になって、落ち着きたい気分だった。千鶴が起きてこないうちに学校へ行けば、道中は一人の時間が持てると考えたのである。
「そうか。ならば、気をつけて。いってらっしゃい」
「……いってきます」
薺に「いってきます」を言った時、確実に声が震えたのが分かった。自分がどんな顔をしたのかなんて分からないけれど、あまり顔を見られたくなくて、顔を背け、リビングを出る。その後、歯磨きを済ませ、自室で支度をして、薺に何も言わず、そのまま家を出た。勢いよく外へ出て閉めた扉の取手に添えられた自分の手はわずかに震えていて、呼吸が弱々しく小刻みに行われているのを感じる。
(分かんない……うれしい?そんな気もするけど、悲しいのかもしれない……)
自分の"当たり前"には、家の中に複数人の足音が響くことも、いってきますといってらっしゃいが通うことも、知っている人が作ったご飯も、色んな人と囲む食卓も、誰かと仲良くすることも、ほとんどないに等しかった。それを昔は確かに求めていた。しかし、それを期待することをもうとっくにやめてしまってもいた。今自分が何を感じているのか、奈々世には分からなかった。
「あーー……」
煮詰まったものを発散させるように、意味のない音を吐き出す。
「とりあえず学校行こう、うん」
奈々世は、熟考することは苦手だ。体を動かすことで、思考を一旦放棄することにした。考えないようにしようと思っても考えることがやめられない人もいるが、幸い、奈々世は、考えないようにしようと思えば、頭の中の動きを止めることのできる人だった。
切り替えることはできないが、色々と考えることをやめて、一昨日昨日と通った道を歩く。視界の開けた、自然に囲まれた道を、朝のひやりとした空気で息をしながら歩いていると、少しずつ頭の中がすっきりとしてきた。学校への山道を歩き終える頃には、すっかり頭は冴えていて、気分も先ほどより幾分か晴れやかになっていた。いつも、思考が煮詰まった時はダンスで発散していたが、新鮮な空気の中散歩をするというのも、なかなか良い手なのだと初めて思った。




