第60話:失ったものと、残ったもの。
今日の屋台の営業が終わった。暖簾を片づけ、屋台を畳み、帰路へ着く。
あのホテルは、買収処理に入った、と風の噂で聞いた。弟は結局、失脚したらしい。
それも風の噂だった。弟の消息も、元・婚約者のことも、今の俺にはどうでもいい事柄だった。
師匠――先代の総料理長――から受け継いだ包丁を研ぐ。
シュッシュッシュと、研ぐたびに、師匠の教えを思い出す。15年間、変わらず言われ続けた言葉を思い出す。
水で洗い流し、包丁の刃紋を見る。
今度は、オヤジさんの教えが頭の中を巡る。
今の俺は、屋台の店主。それは、辿り着くべくして、辿り着いた場所なのかもしれない。
一年前、俺は、あのホテルから放逐され、いろいろな物を失ったと思った。
しかし、それは間違いだった。失ったのではない。余計なものが、俺から離れていっただけだった。
そして、俺は、この屋台に出会った。オヤジさんに出会った。
屋台の常連客と出会った。
純粋に、俺の料理を食べて喜ぶ笑顔を見ることができた。
その笑顔に救われた。「ホテルの元・総料理長」という肩書きから解き放たれた。
それで十分だった。いや、俺は、それらを得るために、包丁を握り続けていたのかもしれない。
俺は、何も失ってはいなかった。ただ、あの頃の俺は、「総料理長」というしがらみに囚われていただけだった。
今夜もまた、この路地裏に常連客が来るのだろう。
俺にとっては、彼らの笑顔が、「美味しい」という言葉が、何よりも「得難いもの」だった。それは、きっと変わらないものだろう。
今日も、常連客が暖簾を上げる音が聞こえる。
客が肴を箸でつまむ姿が見える。
日本酒をぐいっと飲む音が聞こえる。
俺は、今日もこの路地裏で、屋台を開くのだった。
<了>




