第35話:「もう遅い」を、静かに突きつける。
「何よ、その言い方は!あなたには、人の心ってものがないの!」
彼女──元・婚約者──が、席を立ち上がって激昂した。運よく、酒の入ったグラスは倒れなかった。
「あの人はね、ホテルを良くしようとして頑張ってるの!今この時間も頑張ってるの!それなのに、あなたは、そんなあの人の苦労も知らずに、こんな屋台でのうのうとしているわけ?!なんの苦労もなく、責任感もなく、悠々自適に……実の弟が苦しんでいるのに、知らんぷりして平気なわけ?!」
あまりにも「身勝手で、自分のことしか考えてない」その言葉に、俺の怒りは、逆に冷めてしまった。むしろ、憐れみを感じてしまった。
何をどう認識したら、俺が悪者になるのだろう。俺をあのホテルから「効率化」を理由に放逐したのは、他の誰でもない、あの社長──俺の弟──だというのに。
恨みこそすれ、あいつの現状を俺が助けなければならない?一体、どう考えたら、そういう思考になるのだろう。
こんな女を、俺は好きになっていたのか。恋は盲目というが、盲目にも程があるな。俺は、自分の不明を恥じるのだった。
「何もかも、もう遅いんだよ。手遅れなんだ。あの状況は、弟自らが作り出した、あいつの責任さ」
俺は、彼女に最後の言葉を伝えた。
「……代金はいい。もう二度とこの屋台の暖簾をくぐらないでくれ。常連さんの酒が不味くなる」
彼女の顔がこわばると同時に紅潮した。見開いた目で俺を見る。
彼女はなにかを言い返そうとするが、言葉になってなかった。
彼女がいなくなり、常連客だけになった。
「……申し訳ないです。みっともないところを見せちゃって。これはほんの詫びです」
俺は、糠漬けを客たちに差し出した。
「……しっかし、驚いたねぇ……あんた、あのホテルの」
「まぁまぁ」常連客の言葉を、別の常連客が遮った。
「店主の過去を詮索するなんてのは、下衆のやることさ。俺たちは、ここで、美味い酒と美味い肴を楽しませてもらってる。それでいいじゃないか」
「……ありがとうございます」俺は深々と、常連客に頭を下げるのだった。
次回予告:
常連客からの意外な注文。
その言葉を受け、俺は初心に戻るのだった。




