第2章:犬鳴の森に撒かれた赤い種
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食堂を支配していた静寂は、突如として重苦しく、息詰まるような塊へと変貌した。部屋の隅にある古いセイコーの掛け時計が刻む音は、普段は穏やかなはずなのに、今は神経を叩き潰すハンマーの轟音のように響く。ギチ……ギチ……。椅子に縛り付けられた男を締め上げる鋼鉄ケーブルの軋み音だけが、唯一残された背景音楽だった。
江戸は手のひらの上の警察章を見つめた。銀色の金属は冷たく輝き、彼の青ざめた顔を映し出している。彼が恐れているのは鉄格子の監獄ではない。長年かけて丹念に築き上げてきた家族の「建前」という完璧な仮面が、粉々に砕け散ることだった。
「あかり」江戸の声は極めて低く、まるで蛇の威嚇するような囁きだった。「あの伝説のように、俺たち全員が犬鳴ダムの底で終わることを望んでいるのか?」
あかりは言葉では答えなかった。彼女はただ一歩近づき、後ろから江戸を抱きしめた。鉄の錆臭さに濡れた湿った手が、夫の首に回される。彼女は鋭い包丁の先で、高価なオーク材のテーブルをなぞり始めた。シュリ……シュリ……。
「江戸さん、あなたが教えてくれたんじゃない?」あかりは江戸の耳元で、毒の入った蜂蜜のような声で囁いた。「この世界はただのゴミ箱で、私たちはその清掃員だって。ドブネズミと番犬に、一体何の違いがあるの?」
江戸の思考は、七年前の記憶へと遠く遡った。日本の法律が及ばないと言い伝えられる、あの伝説の「犬鳴トンネル」へ。当時、彼は退屈な死体たちに嫌気がさした鑑識助手だった。あの日、青白い月光の下で、彼は初めてあかりを見た。ただの女としてではなく、バールで男の車を叩き壊し、血の雨の中で狂ったように笑う「死の女神」として。ゾクゾク……。その身震いこそが、江戸が初めて「生」を実感した瞬間だった。それが彼らの初デートだった。共に片付けた死体の上で交わした、鮮血の真実。
そして、しおりが生まれた。
江戸は、しおりが八歳だった時のことを思い出した。獲物に抵抗され、腕に深い切り傷を負って帰宅したあかり。しおりは泣かなかった。湖面のように無機質な表情で、その子は江戸が趣味の「剥製作り」で愛用していた縫合針を手に取った。しおりは、壊れた布人形を直すかのような恐ろしいほどの正確さで、母親の皮膚を縫い合わせていった。共感などない。そこにあるのは、効率だけだった。
犬神家は、まさに「人形の家族」だった。外側からは、ブランド品に身を包み、光り輝く陶器のように美しく見える。しかし内側は、礼儀正しい微笑みの裏に隠された、腐った藁と膿で満たされているのだ。
「お父様、お母様」しおりの声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
その少女はノートパソコンから目を離さなかった。画面から放たれる青い光が眼鏡に反射し、彼女の瞳を暗闇で光る捕食者のように見せていた。
「そのバッジ……。私がプロトコルを遮断する直前に、GPSがラストピングの緊急信号を送信したわ。暗号化されたデータを見る限り、捜査班の同僚たちがこの座標に向かっている」しおりは冷静に腕時計に目をやった。「十五分後には門の前に到着する。この『お客様』を『溶かす』のに使える時間は十分。さもなければ、私たちは別の『晩餐』で彼らを迎え入れることになるわね」
あかりは低く笑い、指先の血を舐めとった。一方で江戸は、自分の整然とした世界が音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
「最後までお読みいただきありがとうございます。次回の更新は明日、22:00を予定しております。また明日お会いしましょう!」




