(3)
*
三十代も半ばを迎えた。四捨五入すれば四十だ。知人友人はほぼ結婚していて、LINEのアイコンが続々と子どもたちの画像に変わっている。毎月毎月、祝儀で金が文字どおり飛んでいくピークも過ぎたように思う。
自分の父親が所帯をもったのが、三十も後半だったから焦りは不思議にないが、着実にその年に近づきつつあることに、驚きが隠せない。
「また女にフラれたって? しょうがないやん。きさんは非モテなんやから」
しっかしムカつくことにモテる非モテやけどなあ。と謎持論を容赦なくぶつけてくる友人は、久しぶりに顔を合わせた高校の同級生だった。
「未だに何の汚れ仕事しとるか知らんけど。ようけ海外飛び回ってからくさ。歴代の彼女に寂しい想いさせてな。かーっ、男の風上にも置けんやっちゃ。もうきさんより忙しい彼女探せばええんちゃう?」
同業者とかさあ。と口をへの字に曲げ、友人がフライドポテトを齧った。真っ昼間のビヤホールでスタウトを呷る。
「……それは、勘弁かなあ」
「えーなんで」
「プライベートでも騙し騙されって、しんどいがな」
「いったいきさんは仕事で何やっとんねんて」
「国際政治ってほんと歌舞伎やからなあ」
「ほう?」
「所詮、俺は一匹やから」
「はあ」
「政治で救われん一匹のために文学があるんやから」
「何の話ですか」
「独り言やけん気にすんな」
「目の前に人がおんのに独り言ってけっこうクるで」
「すまんな」
何年かぶりに足を踏み入れた日本は、様相が変わっていた。コロナで当初の帰国予定がだいぶ延び、派遣国で長く足止めを喰らったが、できる限りの引継ぎをし、後任に遺せるものを遺してきたつもりだ。
この疫病が炙り出したもの。外交、社交の場、オフィス、新規開拓機会の消失。
本音が隠され、建前だけが外に綻び出る世界。
「ま、無事に帰ってきて何よりやわ。これからはどないすんの?」
「んー。辞めよかな」
「……は?」
帰還を祝ってくれた友人には悪いが、既に仕事を引き継いだ時点で、己の役割は終えたと感じていた。
「足、洗おう思て」
「そんな……。きさんが抜けるとか、組織の損失やないんか?」
「それはないやろ。元から組織は個人を助けてくれるもんでもなし。駒一人おらんくなっても簡単に崩れることはない」
「せやけど、」
「ちょっとな、疲れたわ」
ふ、と眉を下げて笑う。向かい合った友人のほうが、なぜか泣きそうな顔をしていることが、何だか居たたまれなくて、そして少しおかしかった。
「自分でない誰かを、演じることに」
ハムレットも、リアも。
コーデリアも、オフィーリアも。
舞台の上では悲劇に興じているよう見せなければならない彼らは、自分でない誰かを演じることに疲れたとして、役を与えられた以上、死ぬまでその舞台を降りることが叶わなかった。
人が産まれてくるとき、必ず泣くのは、この愚か者どもの生きる舞台に引き出されたことが、哀しいからだ。
そう言ったのは、リアだったか。
しかしその舞台の桎梏にとらわれなかった、ただひとりが。名もなき道化は、果たして、第三幕第六場で、なぜ、いったいどこに退場し、消えたのだろうか?
価値の転倒をもたらした者。全を無に帰した彼の者は、誰に何も告げず舞台を去った。舞台の枠外で、彼の高笑いが聞こえてくるようだ。
自分も、役割を終えたのだ。あの道化のように。




