焦土の密約
一九八三年、八月十五日。
終戦記念日の正午を過ぎたS市は、熱波にひれ伏した死の街のようだった。
アスファルトからは陽炎が立ち上り、遠くの景色を醜く歪めている。路地裏の湿った陰に身を潜める久保寺耕介は、ボロ布のようなハンチング帽を深く被り、汗で肌に張り付くトレンチコートを脱ぎ捨てていた。
手元にあるのは、石巻邸の登記簿から割り出した、一人の男の身辺資料だ。
ターゲットは、S市土地開発公社の用地課長、進藤和男。
石巻家の土地を「公共用地」の名目で強引に収用し、その舌の根も乾かぬうちに河村不動産へ転売する――そんな、街の心臓を切り売りする背任ルートを構築した張本人である。
午後一時。公社の重厚な玄関から、小太りで銀縁眼鏡をかけた進藤が姿を現した。
彼はまるで背後に死神でも憑いているかのように、執拗に周囲を警戒しながら、公用車ではなく私有の白いマークIIに乗り込んだ。
久保寺は、馴染みの解体屋から借り受けた中古のスーパーカブに跨り、適度な距離を保ってその後を追った。
追跡は、忍耐の極致だった。
ヘルメット越しに叩きつける陽光が、久保寺の思考を麻痺させようとする。だが、かつてT市の路地裏を這いずり回った刑事の勘が、彼を冷徹な追跡機へと変えていた。信号待ちではわざと大型トラックの影に隠れ、進藤のバックミラーの死角――「意識の外側」に潜り込む。
S市の郊外へ向かうにつれ、車窓の風景は急速に色を失っていった。
かつての豊かな田畑は重機によって無残に抉られ、プレハブの工事事務所と、警告色の強い「立ち入り禁止」の看板が、癌細胞のように増殖している。
そこにあるのは、発展という名の「略奪」だった。石巻家を飲み込んだ巨大な歯車が、今も休むことなく回転し続けている。
進藤の車が止まったのは、荒野の真ん中にぽつんと佇む、場違いに豪華な料亭「千歳」だった。
久保寺はカブを藪の中に放り込み、這いつくばるようにして料亭の裏手へと回り込んだ。防犯カメラも赤外線センサーも存在しない、一九八三年の緩さ。彼は生垣の隙間から、奥座敷の様子を伺った。
冷房の効いた室内。そこには、下卑た笑みを浮かべる進藤と、その向かいに座るアロハシャツの男がいた。
数日前、石巻邸で久保寺に銃口を向けた、河村の犬だ。
「進藤さん。例の件、市長への根回しは済んだんだろうな」
男の野太い声が、庭園の蝉時雨を切り裂いて漏れ聞こえてくる。
「は、はい。石巻のガキどもの……その、供養代だと言って、追加の予算も通しました。……ですが、あの久保寺という元刑事が嗅ぎ回っていると……」
「あんな枯れ木、心配いらねえよ。組織を失ったデカなんて、牙の抜けた老いぼれ狼だ」
アロハシャツの男は、高価なウイスキーを喉に流し込み、鼻で笑った。
「あいつにできるのは、ゴミ拾いか、浮気調査くらいなもんさ。この街の『再開発』という名のコンクリートの下に、まとめて埋めてやりゃあいい」
「――牙の有無を、今すぐ試してみるか?」
久保寺の声が、座敷の障子を突き破るように響いた。
進藤が短い悲鳴を上げ、アロハシャツの男が反射的に懐へ手を伸ばす。だが、久保寺の執念の方が、コンマ数秒、速かった。
彼は庭から座敷へ飛び込むと同時に、テーブルの上にあった重いクリスタルの灰皿を掴み、男の顔面へ叩きつけた。
グシャリ、という生々しい破壊音。
鼻血を噴き出し悶絶する男の腕を、久保寺は容赦なく捻り上げ、畳に押しつけた。その力は、三年前よりも鋭く、重い。
「……進藤。お前が今『供養代』と呼んだその金は、あの子供たちが、逃げ場のない部屋で流した血の重さだ」
久保寺は、腰を抜かした進藤の鼻先に、返り血のついた顔を近づけた。
「その銀縁眼鏡の奥で、あの子たちの末期の顔が焼き付いて離れないか? それとも、金さえ積めば、地獄の閻魔も買収できると思っているのか?」
進藤は畳の上で失禁し、喉をヒクつかせながら震えていた。
久保寺の瞳には、かつての「警察官」としての正義など、微塵も残っていなかった。そこにあるのは、法が裁ききれなかった悪を、地獄の底まで引きずり戻そうとする「個」の狂気だ。
「組織はいらん。法もいらん」
久保寺はアロハシャツの男の指を、一本ずつ、折れる寸前まで締め上げた。
「俺には、この両手と、あの子たちの絶望の記憶があれば十分だ。さあ、進藤。お前の主人の居場所を吐け。さもなくば、お前がその『供養代』で、自分自身の葬式を出すことになるぞ」
夕立の予感を含んだ黒い雲が、S市の空を覆い始めていた。
一九八三年、夏。
久保寺耕介という名の狼は、その牙を、この腐った街の喉笛に深く突き立てた。




