聖域の握り飯(おにぎり)
一九八三年、夏の夜。
S市の街明かりは、窓の外で澱んだ水のように揺れていた。
雑居ビルの三階、久保寺調査事務所の奥にある六畳一間の生活スペースは、扇風機が唸りを上げて熱風をかき回しているだけだ。使い古されたデスクの上には、石巻邸から「盗み出した」登記簿の写しと、S市の再開発計画図が、まるで解けない呪文のように乱雑に広げられていた。
久保寺は、度を合わせたばかりの老眼鏡を指で押し上げ、複雑に入り組んだ土地の所有権移転の履歴を、執拗に追い続けていた。
「……河村不動産から大日開発。そこからさらに、S市土地開発公社へ……」
赤ペンで引かれた線が、蜘蛛の巣のように一点へと収束していく。それは、石巻家が最後まで死守し、そして一家の血で濡れることになったあの「焦土」だった。
背後の引き戸が、微かな音を立てて開いた。
盆に乗せられた湯気の立つおにぎりと、沢庵、そして熱い茶の香りが、煤けた部屋の男臭い空気を一瞬だけ和らげる。
「まだ、根を詰めているのね。耕介さん」
妻の恵子が、久保寺の丸まった肩にそっと手を置いた。
三年前のあの嵐のような日々。娘のななみを失い、夫が職を辞し、どん底の淵を這っていた時も、彼女はただ黙って隣にいた。T市を離れ、このS市で「探偵」などという実体のない商売を始める決断をしたときも、彼女は「あなたの目がまだ、あの埋立地を掘り返しているから」と静かに笑ってついてきたのだ。
「ああ。こいつを解かないことには、石巻さん一家の無念が形にならない」
久保寺は眼鏡を外し、疲れた両目を指の腹で強く押さえた。
「食べなさい。お腹が空いていては、獲物の足跡も見えなくなるわ」
恵子は、久保寺の手元にある凄惨な現場写真や、血痕の付着した書類には目もくれない。目を逸らしているのではない。彼女にとって、夫が向き合っている「悪」は、すでに自分たちの生活の一部であり、それを支えることこそが、娘を失ったあとの唯一の「日常」なのだと割り切っているようだった。
久保寺は、まだ温かいおにぎりを一つ手に取った。
「……恵子。すまんな、こんな場所で」
「今さら何を。あの子を見つけた時、私たちは一度死んだようなものじゃない。今の時間は、神様がくれた『おまけ』の余生よ」
恵子の言葉は、久保寺の胸に古い棘のように刺さった。
ななみの遺骨が第十四埋立地のコンクリートから発見されたあの日、二人は声を失って泣き崩れ、そして無言の誓いを立てた。二度と、子供が泥や金のために埋め殺されるような理不尽を、この街で許しはしないと。
久保寺はおにぎりを一口頬張った。米の甘みが、乾いた喉に染み渡る。具のない、塩だけの握り飯。それが、今の彼にはどんな贅沢品よりも確かな生命の味がした。
「河村の連中、今度は『金』と『登記簿』という名のコンクリートで、この街を塗り固めようとしている。やり方は三年前より巧妙だ。だが、土台が腐っているのは変わりない。……むしろ、腐敗は深まっている」
「……気をつけてね。あなたはもう、守ってくれる『組織』も『法』も持たないんだから」
恵子の瞳に、微かな、だが鋭い不安がよぎる。先日の石巻邸で、暴漢に銃を突きつけられたことを彼女は知らない。だが、夫のコートに付いた泥の色や、指先の微かな震え、そして部屋に持ち込まれる死の気配から、彼女はすべてを察していた。
「わかっている。……だが、俺にはこれしかないんだ。これを手放せば、俺は本当にななみの父親ではなくなってしまう」
久保寺は再び、登記簿の文字に目を落とした。
その時、ページの端に記された、小さな「地目変更」の印影が、彼の網膜を叩いた。
「……待てよ。この印……」
久保寺の動きが止まる。
彼は立ち上がり、部屋の隅に積まれた段ボール。三年前、警察を去る際に、村瀬係長が「紛失扱い」にして密かに渡してくれた捜査資料の写しを漁り始めた。
埃が舞う中で、彼は一枚の報告書を引き抜いた。
三年前、T市の埋立地再開発に関わっていた役人の認印。その欠けた縁の形が、今、手元にあるS市の登記簿にあるものと、完璧に重なった。
「……繋がったぞ。河村だけじゃない。T市からS市へ、この腐った構造ごと『移植』されてきたんだ」
久保寺の背後で、恵子はそれ以上何も言わず、空になった湯呑みを盆に乗せて静かに部屋を出て行った。
彼女は知っている。夫が一度「獲物」の匂いを嗅ぎつければ、もう誰にも止められないことを。
扇風機の首振りの音が、規則正しく空気を切り裂く。
一九八三年、夏の夜。
久保寺耕介は、暗闇の中に光る新たな「闇の入り口」を見つけ出していた。
その入り口は、三年前よりも深く、そして多くの命を呑み込んでいるようだった。




