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琥珀の檻(こはくのおり)  作者: 水前寺鯉太郎
探偵編

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焦土の登記簿


 一九八三年、夏。

 久保寺耕介が踏み出した一歩は、焼けたアスファルトの上で重く、粘りつくように響いた。

 S市の陽光は、もはや恵みではなく、すべてを干上がらせ、暴くための暴力だった。三年前、T市でコンクリートの檻を砕いた男の双眸には、いまだに冷徹な「検事さがしもの」の光が、衰えることなく宿っている。

 石巻家の惨劇があった現場は、S市郊外の再開発予定地、その最奥に位置していた。

 かつては地元の名士が住まう静謐な屋敷だった場所も、今は錆びたフェンスに囲い込まれ、不自然な沈黙を強要されている。周囲の家々は地上げの波に呑まれ、歯が抜けたように空き地が広がる。陽炎が揺れる瓦礫の山は、まるで巨大な墓標の群れだった。

 久保寺はフェンスの歪みを潜り、石巻邸の庭に立った。

 手入れの途絶えた雑草が膝を隠し、降り注ぐ蝉時雨が鼓膜を執拗に刺す。玄関の引き戸には、警察が貼った色褪せた封印が、無念の証のように熱風に揺れていた。

「……組織が動けない理由。その正体を見せてもらおうか」

 久保寺は独り言ち、懐から使い古されたペンライトを取り出した。

 引き戸の鍵は、すでに何者かによって壊されていた。家の中は、三ヶ月前の凄惨な記憶を閉じ込めたまま、腐敗した静止画のように固まっている。畳に染み付いた黒ずんだ血痕は、すでに乾燥して鉄錆のような悪臭を放ち、そこにたかる蝿の羽音だけが生命の気配を伝えていた。

 久保寺は、犯人の足跡ではなく「意図」を探した。

 一家四人の殺害。執拗に損壊された遺体。単なる金品目当ての強盗であれば、ここまで手間をかける必要はない。これは「怨恨」というよりも、この土地に固執する者への苛烈な「見せしめ」だ。

 廊下の隅、仏壇が安置されていた場所で、久保寺の目が止まった。

 壁紙の一部に、不自然な浮きがある。彼はその隙間に指をかけ、一気に引き剥がした。剥がれた壁紙の裏から現れたのは、隠し金庫ではなく、古びた登記簿の束と、一通の契約書だった。

「……やはりな。S市土地開発公社、そして――『河村不動産』」

 その名を目にした瞬間、久保寺の左頬、かつての殴り込みで刻まれた古傷が疼いた。

 河村。三年前、自分が壊滅させたはずの「河村組」の残党が、バブル前夜の狂騒を追い風に、不動産業という合法的な仮面を被って生き延びていたのだ。土地転がしの障害となる頑固な地主一家を、彼らは容赦なく「消去」し、その死骸を土台にしてビルを建てようとしている。

 久保寺が書類をコートの内ポケットに収めた時、背後で乾いた金属音が響いた。安全装置セーフティを外す音。

「おっさん。余計な嗅ぎ回りは、命を縮めるぜ。三年前から何も学んでねえようだな」

 振り返ると、縁側に一人の男が立っていた。

 派手なアロハシャツの下に潜む筋肉。サングラスの奥から覗く下卑た眼光。彼が手にしているのは、警察が使うものよりも銃身の短い、改造モデルガンではない「本物」の拳銃だった。

「その顔……見覚えがあるな。河村の三男を逃がそうとして、俺に腕を折られた運転手か」

 久保寺は動じなかった。むしろ、獲物を見つけた猟犬のような、暗く、鋭い笑みを浮かべた。その圧倒的な静止が、逆に男の神経を逆撫でする。

「あの時はよくもやってくれたな、久保寺さんよ。だが、今の俺たちは警察より強い。金と政治、それが俺たちの新しい盾だ。お前みたいな野良犬が噛みつける相手じゃねえんだよ」

「盾、か。そいつは弾丸を通さないのか?」

 久保寺は一歩、また一歩と距離を詰める。床板が軋む音が、死のカウントダウンのように部屋に響く。

「止まれ! 撃つぞ! 冗談じゃねえぞ!」

「撃てよ。だが、俺を殺せば、今手にしているその登記簿の隠し場所は一生分からなくなる。お前の主人が喉から手が出るほど欲しがっている、この街の『心臓』だ」

 男の指が引き金にかかる。だが、久保寺の放つ圧倒的な「死の気配」――地獄の底を覗き、そこから這い上がってきた者だけが持つ、生の執着を超越した眼光に、男の腕がわずかに震えた。

「……お前たちが、金のためにこの街を汚すのは勝手だ。だがな、子供の命まで土砂と一緒に埋め立てるなら、俺が何度でもその土を掘り返してやる。爪が剥がれ、指が折れてもな」

 久保寺の言葉が、灼熱の室内を凍りつかせる。冷徹な殺気が、真夏の熱気を駆逐していた。

 その直後、遠くでけたたましいサイレンの音が響き始めた。

 久保寺が石巻邸に潜入する前、馴染みの事件記者へ「石巻邸に武装した不審者が入っていった」と匿名の通報を入れておいたのだ。

「ちっ、今日はここまでだ。だがな久保寺、次はお前の事務所が石巻邸と同じになるぞ。家族がいねえお前なら、焼くのはお前一人で済むから楽だな!」

 男は吐き捨て、裏庭の茂みへと逃走した。

 独り残された久保寺は、額の汗を拭い、再びハイライトに火をつけた。

 紫煙が、西陽の差し込む凄惨な部屋にゆらりと昇り、血痕の上に影を落とす。

 T市のコンクリートから始まった戦いは、今、S市の焦土へと戦場を変えた。

 相手は組織であり、金であり、この時代そのものの狂気だ。

 一九八三年、夏。

 久保寺耕介の「長い夏」が、再び幕を開けた。

 彼の手には、権力という名の棺を抉じ開けるための、重い鍵が握られていた。

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