アスファルトの残響
一九八〇年、四月。
T市の空には、季節外れの暴力的な風が吹き荒れていた。
かつて少女を閉じ込めたコンクリートの粉塵を、すべて海へと叩き落とそうとするかのような烈風。だが、街のあちこちで蠢く重化学工業の煙突は、容易にその青空を許してはくれなかった。
T県警、地下取調室。
窓のない、死んだ空気の漂う空間で、久保寺耕介はパイプ椅子に深く腰掛けていた。手首には、肉を噛むような冷たい銀色の手錠が食い込んでいる。
「……懲りない男だな、久保寺。いや、もう久保寺『元』巡査部長と呼ぶべきか」
机を挟んで向かい合う監察官は、冷え切った紅茶のカップを弄んでいた。
久保寺が敢行した河村組本社への殴り込みは、T市の秩序を根底から揺るがした。現職刑事が企業へ押し入り、バールを振るった事実は、警察上層部にとって致命的な不祥事だ。だが、彼が刺し違える覚悟で持ち込んだテープと、村瀬係長が最期に託した裏金リストは、街を支配していた「沈黙の壁」を完膚なきまでに打ち砕いていた。
「河村正造は市長選を辞退、贈収賄と証拠隠滅で立件される。息子たちは少年院送りだ。……お前が火をつけた導火線は、この街の汚物を一気に焼き払ったよ」
監察官は手元の書類を閉じ、眼鏡を外した。
「五年前の事件――お前の娘、ななみさんの件についても、第十四埋立地で再捜査が始まった。……コンクリートの深層部から、複数の白骨死体が発見されたそうだ。その中には、少女のものと思われる小さな骨も含まれている」
久保寺は、動かなかった。ただ、睫毛をかすかに震わせ、部屋の隅に溜まった埃を見つめていた。その埃さえ、かつて娘を包み込んだ砂塵の一部のように思えた。
「……そうか」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「お前の行為は決して許されるものじゃない。刑事訴訟も覚悟しろ。だが……」
監察官はそこで言葉を切り、タバコに火をつけた。
「あの街の警察官で、あそこまで踏み込んだ奴はお前だけだった。佐藤美咲の両親が、感謝したいと言っている」
「感謝される資格などない」
久保寺は小さく首を振った。「俺がやったのは、自分のための決算だ」
数週間後。
保釈金を払い、仮釈放の身となった久保寺は、警察手帳も、あの重い黒革の靴も失っていた。残ったのは、着古して潮の香りが染み付いたトレンチコートと、癒えることのない心の傷跡だけだった。
彼は足を引きずるようにして、再びあの埋立地を訪れた。
佐藤美咲の遺体が見つかった場所には、誰かが手向けた白い菊の花束が、潮風に晒されて無残に萎れていた。
久保寺は花束の前に立ち、持参した安酒を地面に零した。
「……美咲さん。冷たかったろうな」
コンクリートに閉じ込められ、呼吸さえ許されなかった十四歳の絶望。その闇を、自分は本当に晴らすことができたのか。街の喧騒は相変わらずで、遠くでは新しいビルの杭を打つ音が響いている。
「刑事さん。……あいつら、本当に捕まったんだね」
背後で声がした。振り返ると、あの時名前を教えてくれた少年が、風に髪をなびかせて立っていた。
「ああ。もう、あいつらがこの街を闊歩することはない」
「……でも、美咲ちゃんは戻ってこない。どんなに捕まえたって、死んだ子は笑わないんだ」
少年の言葉に、久保寺は応えることができなかった。一九八〇年という時代は、あまりにも多くの犠牲の上に、無神経な狂騒へと突き進もうとしている。
「おじさん、これからどうするの?」
「……さあな。まずは、娘を迎えに行かなきゃならん」
第十四埋立地の発掘作業は、今も続いている。コンクリートを砕き、土を掘り返し、そこに眠る「ななみ」の破片を、自分自身のこの手で抱き上げるまで、彼は止まることはできない。それが、彼に残された最後で最高の「仕事」だった。
夕暮れ時。T市の工場群に一斉に灯がともる。
オレンジ色の光が、黒ずんだ海を毒々しくも美しく染めていく。久保寺は少年に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
街は変わらない。古い記憶は次々と舗装され、新しいアスファルトに塗り固められていく。それでも、その下には、確かにこの街が生み出した「歪み」が、今も冷たい息を潜めている。
彼はポケットから、古びた一枚の写真を取り出した。
ブランコに揺れる、十歳の頃の娘。まだ、世界が色鮮やかだった頃の笑顔。
「……行こうか」
久保寺の声は、激しい潮騒に溶けて消えた。
一九八〇年、春。
高度経済成長の墓標と、バブルへの狂乱の狭間で、一人の刑事の物語は幕を下ろした。
だが、彼が踏み抜いた黒い土の上に、小さな名もなき草が芽吹いているのを、まだ誰も知らない。
久保寺は一度も振り返ることなく、灰色の街の中へと消えていった。
その背中は、どんな権力よりも硬く、冷たいコンクリートよりも重い意志を湛えていた。




