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琥珀の檻(こはくのおり)  作者: 水前寺鯉太郎
刑事編

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5/15

アスファルトの残響

 一九八〇年、四月。

 T市の空には、季節外れの暴力的な風が吹き荒れていた。

 かつて少女を閉じ込めたコンクリートの粉塵を、すべて海へと叩き落とそうとするかのような烈風。だが、街のあちこちで蠢く重化学工業の煙突は、容易にその青空を許してはくれなかった。

 T県警、地下取調室。

 窓のない、死んだ空気の漂う空間で、久保寺耕介はパイプ椅子に深く腰掛けていた。手首には、肉を噛むような冷たい銀色の手錠が食い込んでいる。

「……懲りない男だな、久保寺。いや、もう久保寺『元』巡査部長と呼ぶべきか」

 机を挟んで向かい合う監察官は、冷え切った紅茶のカップを弄んでいた。

 久保寺が敢行した河村組本社への殴り込みは、T市の秩序を根底から揺るがした。現職刑事が企業へ押し入り、バールを振るった事実は、警察上層部にとって致命的な不祥事だ。だが、彼が刺し違える覚悟で持ち込んだテープと、村瀬係長が最期に託した裏金リストは、街を支配していた「沈黙の壁」を完膚なきまでに打ち砕いていた。

「河村正造は市長選を辞退、贈収賄と証拠隠滅で立件される。息子たちは少年院送りだ。……お前が火をつけた導火線は、この街の汚物を一気に焼き払ったよ」

 監察官は手元の書類を閉じ、眼鏡を外した。

「五年前の事件――お前の娘、ななみさんの件についても、第十四埋立地で再捜査が始まった。……コンクリートの深層部から、複数の白骨死体が発見されたそうだ。その中には、少女のものと思われる小さな骨も含まれている」

 久保寺は、動かなかった。ただ、睫毛をかすかに震わせ、部屋の隅に溜まった埃を見つめていた。その埃さえ、かつて娘を包み込んだ砂塵の一部のように思えた。

「……そうか」

 絞り出した声は、ひどく掠れていた。

「お前の行為は決して許されるものじゃない。刑事訴訟も覚悟しろ。だが……」

 監察官はそこで言葉を切り、タバコに火をつけた。

「あの街の警察官デカで、あそこまで踏み込んだ奴はお前だけだった。佐藤美咲の両親が、感謝したいと言っている」

「感謝される資格などない」

 久保寺は小さく首を振った。「俺がやったのは、自分のための決算だ」

 数週間後。

 保釈金を払い、仮釈放の身となった久保寺は、警察手帳も、あの重い黒革の靴も失っていた。残ったのは、着古して潮の香りが染み付いたトレンチコートと、癒えることのない心の傷跡だけだった。

 彼は足を引きずるようにして、再びあの埋立地を訪れた。

 佐藤美咲の遺体が見つかった場所には、誰かが手向けた白い菊の花束が、潮風に晒されて無残に萎れていた。

 久保寺は花束の前に立ち、持参した安酒を地面に零した。

「……美咲さん。冷たかったろうな」

 コンクリートに閉じ込められ、呼吸さえ許されなかった十四歳の絶望。その闇を、自分は本当に晴らすことができたのか。街の喧騒は相変わらずで、遠くでは新しいビルの杭を打つ音が響いている。

「刑事さん。……あいつら、本当に捕まったんだね」

 背後で声がした。振り返ると、あの時名前を教えてくれた少年が、風に髪をなびかせて立っていた。

「ああ。もう、あいつらがこの街を闊歩することはない」

「……でも、美咲ちゃんは戻ってこない。どんなに捕まえたって、死んだ子は笑わないんだ」

 少年の言葉に、久保寺は応えることができなかった。一九八〇年という時代は、あまりにも多くの犠牲の上に、無神経な狂騒へと突き進もうとしている。

「おじさん、これからどうするの?」

「……さあな。まずは、娘を迎えに行かなきゃならん」

 第十四埋立地の発掘作業は、今も続いている。コンクリートを砕き、土を掘り返し、そこに眠る「ななみ」の破片を、自分自身のこの手で抱き上げるまで、彼は止まることはできない。それが、彼に残された最後で最高の「仕事」だった。

 夕暮れ時。T市の工場群に一斉に灯がともる。

 オレンジ色の光が、黒ずんだ海を毒々しくも美しく染めていく。久保寺は少年に背を向け、ゆっくりと歩き出した。

 街は変わらない。古い記憶は次々と舗装され、新しいアスファルトに塗り固められていく。それでも、その下には、確かにこの街が生み出した「歪み」が、今も冷たい息を潜めている。

 彼はポケットから、古びた一枚の写真を取り出した。

 ブランコに揺れる、十歳の頃の娘。まだ、世界が色鮮やかだった頃の笑顔。

「……行こうか」

 久保寺の声は、激しい潮騒に溶けて消えた。

 一九八〇年、春。

 高度経済成長の墓標と、バブルへの狂乱の狭間で、一人の刑事の物語は幕を下ろした。

 だが、彼が踏み抜いた黒い土の上に、小さな名もなき草が芽吹いているのを、まだ誰も知らない。

 久保寺は一度も振り返ることなく、灰色の街の中へと消えていった。

 その背中は、どんな権力よりも硬く、冷たいコンクリートよりも重い意志を湛えていた。

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