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琥珀の檻(こはくのおり)  作者: 水前寺鯉太郎
刑事編

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2/15

鋼(はがね)の棺、泥の街


 二月。T市の埋立地を吹き抜ける風は、剃刀のような鋭さを増していた。

 凍てつく海風が工場の煙突を鳴らし、街全体が巨大な、錆びた機械の中に閉じ込められたような錯覚を覚えさせる。

 久保寺耕介は、場末の喫茶店「琥珀」の片隅で、冷めきった泥水のようなコーヒーを啜っていた。タバコの煙が、琥珀色の照明に照らされて重く滞留している。テーブルの上には、あの震える少年から聞き出した「三人の名前」が記された警察手帳が開かれていた。

河村 隆:地元を牛耳る「河村組」の三男坊。

佐々木 健:暴走族「黒蜘蛛」の幹部。

市議会議員の息子(氏名調査中)。

 名前をなぞる久保寺の指先が、怒りでわずかに震えた。

 河村組。この街の再開発、公共事業、そして「廃棄物処理」を独占する土建の怪物だ。あのドラム缶が遺棄された埋立地も、彼らが管理する「庭」に過ぎない。

 少女を埋めたコンクリートも、彼女を運んだトラックも、すべては彼らの所有物だ。街そのものが、少年たちの残虐行為を隠蔽する巨大な「棺」として機能しているのだ。

「久保寺さん、その辺にしておけ。火遊びが過ぎれば、火だるまになるのはあんただ」

 背後から低く、濁った声がした。捜査一課の係長、村瀬だ。

 村瀬は周囲を病的なほどに気にしながら、久保寺の向かいに腰を下ろした。彼の手元には、上層部からの「内密な」指示書があった。

「上から横槍が入った。被害者の佐藤美咲には家庭内暴力の形跡があり、素行不良で家出を繰り返していた……。そういう『筋書き』で落とし所を探れとな。加害者側の親たちが動いている。河村の親父は、次期市長選のメインスポンサーだ。わかるか?」

「素行不良、だと?」

 久保寺は、コーヒーカップをソーサーに叩きつけた。鋭い陶器の音が店内に響き、カウンターの客が肩を震わせる。

「あの子の爪の間には、あいつらのバイクと同じ『赤い塗料』がこびりついていたんだ。口の中には、引きちぎられた学生服のボタンだ。死ぬ間際まで、あの子は地獄の中で戦っていたんだぞ! それを、被害者側の落ち度で片付けろと言うのか!」

「法が裁くのは、立証された事実だけだ。あんたの正義感じゃない」

「その法を、ガキどもが札束で踏みにじっているんだよ、村瀬」

 久保寺は席を蹴り、コートをひっ掴んだ。背後で村瀬が「久保寺!」と呼び止める声を、彼は冷たい夜気とともに切り捨てた。

 夜のT市は、ネオンの光が泥水に反射し、潰れた果実のような毒々しい極彩色に彩られていた。

 久保寺が向かったのは、繁華街の奥、少年たちの根城となっているゲームセンター「バビロン」だ。

 自動ドアが開くと同時に、電子音の濁流と、安っぽい煙草と汗の臭いが肺を突く。

 奥のソファ席、インベーダーゲームの青白い光に照らされて、スカジャンを羽織った少年たちが下卑た笑い声を上げていた。

 その中心に、一際体格の良い、蛇のような目つきの少年がいた。河村隆だ。

 久保寺は迷わず歩み寄り、河村が座るテーブルに、一枚の写真を叩きつけた。

 ――コンクリートから突き出た、あの白い指の写真だ。

 一瞬、周囲の喧騒が真空状態のように凍りついた。少年たちの視線が写真に吸い寄せられ、次いで久保寺へと向けられる。

「……何だ、おっさん。インベーダーの邪魔すんなよ」

 河村は動じなかった。ガムをクチャクチャと鳴らし、写真に一瞥もくれずに久保寺を睨み返す。その目は、自分が法にも大人にも守られていることを確信している特権階級の目だ。

「佐藤美咲。見覚えがあるだろう、河村」

「さあな。そんな名前の女、腐るほどいるからよ」

「お前の赤いバイク、左のタンクに目立つ傷があるな。あの子が最期に、お前の誇りごと掻きむしってやった跡だ。……爪の間から、お前のバイクの塗料が出たよ」

 河村の頬がピクリと引きつった。隠しきれない動揺が、不遜な微笑の裏側に泥のように滲み出る。

「証拠でもあるのかよ。警察なら、令状持って出直してこいよな。ここは俺たちの『城』なんだよ」

 周囲の少年たちが、椅子を引いて久保寺を取り囲む。殺気立った空気が、電子音の鳴り響く密室を満たしていく。

 だが、久保寺は一歩も引かない。彼は電光石火の速さで河村の胸ぐらを掴み、その顔を、至近距離まで引き寄せた。

「城だと? ここはただのゴミ溜めだ。そしてお前は、その中で一番汚い、燃えないゴミだ」

「離せよ、デカ! 親父に言えば、お前の首なんて一日で飛ばせるんだぞ!」

「飛ばせるものなら飛ばしてみろ。だがな、その前にお前を、あのドラム缶と同じ場所へ叩き込んでやる。……コンクリートを流し込まれる時、人はな、鼻からも口からも肺に砂が入り込んで、内側から窒息するんだ。その恐怖を、骨の髄まで教えてやるよ」

 久保寺の瞳に宿る、冷徹なまでの狂気。それは法を守る番人のものではなく、獲物の喉笛を狙う獣のそれだった。河村の顔から、特権という名の仮面が剥がれ落ち、生身の恐怖が顔を出した。

 その時だ。店の外でけたたましいサイレンが鳴り響いた。

 なだれ込んできたのは、所轄の制服警官たちだった。だが、彼らの銃口――あるいは視線が向いたのは、河村たちではなく、久保寺の方だった。

「久保寺一課員! 直ちに職務を放棄し、本部に同行しろ! 監察課による、被疑者への暴行・威圧捜査の疑いだ!」

 背後から複数の警官に羽交い締めにされる。久保寺の拘束を確認した瞬間、河村は再び、勝利者の下卑た笑いを取り戻した。

「ほら見ろよ。正義の味方は大変だな、おっさん」

 河村は床に落ちた少女の写真を、土足のまま、ゆっくりと踏みにじった。

 パトカーの後部座席に押し込まれた久保寺は、窓の外を流れるT市の腐った景色を見つめていた。

 組織、権力、少年法。厚いコンクリートの壁は、少女を殺しただけでなく、真実さえも塗り固めようとしている。警察内部にさえ、河村の犬がいる。

 だが、久保寺はコートのポケットの中で、拳を固めていた。

 その中には、先ほど河村の胸ぐらを掴んだ際、指先で強引に引きちぎった「ボタン」があった。

 解剖室で見つかった、あの「噛みちぎられたボタン」と同じ、河村のスカジャンに付いていた特注のボタンだ。

「……まだだ。まだ、終わらせない」

 パトカーの赤色灯が交互に照らす久保寺の顔。その眼光だけは、組織の鎖に繋がれてもなお、獲物を逃さない鷹のように鋭く、夜の闇を射抜いていた。

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