一九八〇年の墓標
一九八〇年、一月。
T市の空は、使い古された軍手のように鈍く、湿った灰色に濁っていた。
東京湾を望む埋立地は、高度経済成長が食い散らかした残骸を吐き出す場所だ。重化学工場の煙突が並び、その足元には正体不明の廃棄物が山をなす緩衝地帯。海風が吹き抜けるたび、錆び付いた鉄板が獣のような悲鳴を上げ、潮混じりの埃が容赦なく視界を削り取った。
T県警捜査一課の久保寺耕介は、ぬかるんだ黒土を重い革靴で踏み締めながら、立ち入り禁止の黄色いテープを潜った。
「……酷ぇもんだな。正月早々、地獄の蓋が開いちまった」
先に現場入りしていた所轄の老刑事が、セブンスターの煙を吐き出しながら吐き捨てた。
視線の先には、錆に侵食された二百リットルのドラム缶が、腐った死骸のように横倒しになっている。久保寺は無言でその前に膝をついた。
ドラム缶の口からは、不格好に固まったコンクリートの塊が、内臓が飛び出すようにせり出している。その冷徹な灰色の表面から、一本の指が突き出ていた。
白く、細く、血の気のない、十四歳の少女の指だ。
泥とセメントにまみれ、助けを求めて伸ばされたまま、時間ごと凍りついたかのような姿。
「女子中学生だそうだ。昨日、捜索願が出てた美咲って子だろうよ」
鑑識官の声が、乾いた風に混じって背後から聞こえる。
「打設が不完全だったのか、ガスで押し出されたのか……。いずれにせよ、現場で割るわけにはいかん。このまま運ぶぞ」
久保寺は動かなかった。少女の指先、その爪の間に、微かに残る「赤」を見つめていた。
マニキュアではない。それは工業用の、硬質な塗料の破片だった。死に物狂いで抗い、何かを掻きむしった証。その鮮烈な赤が、モノクロームの景色の中で、久保寺の網膜を焼き切るように痛んだ。
彼は胸ポケットからハイライトを取り出し、一本を唇に挟んだ。だが、火はつけない。
五年前。自分の娘が、同じ十四歳で姿を消した。あの時も、T市の空はこんな色をしていた。胃の奥を古い剃刀で抉られるような疼きを、彼は煙草を噛み潰すことでやり過ごした。
翌日、県警本部の地下解剖室。
そこは聖域ではなく、解体場だった。けたたましい削岩機の音が、タイル張りの壁に反響し、鼓膜を震わせる。
コンクリートを数ミリ単位で削り、少女の「肉」を「石」から剥がしていく作業は、解剖というよりは、呪われた遺跡の発掘に近い。摩擦熱で焦げるセメントの臭いと、閉じ込められていた腐敗臭が混じり合い、立ち会った若い刑事はたまらず部屋を飛び出していった。
数時間に及ぶ格闘の末、現れたのは、もはや人間の尊厳を奪い去られた成れの果てだった。
全身を覆う皮下出血の斑点。執拗に繰り返されたであろう火傷の痕。複雑に折れ曲がった四肢。
「……死因は、多臓器不全に伴う敗血症。あるいは、衰弱死です」
法医学者が、血のついたゴム手袋を脱ぎながら、低い声で言った。
「久保寺さん。最悪なのは、彼女がコンクリートを流し込まれた時……まだ、生きていた可能性が極めて高いということです」
久保寺の指が、手帳を握りしめたまま白く強張る。
「これを見てください」
ピンセットが差し出された。その先には、少女の口内から摘出された、噛みちぎられたプラスチックの破片があった。
「……学生服のボタンです。彼女は、死ぬ間際まで、自分を蹂躙した何かに、あるいは誰かに、牙を剥いていた」
解剖室を出ると、廊下の窓から冬の刺すような冷気が吹き込んでいた。
捜査会議では、上層部が「早急な解決」を連呼している。だが、現場付近のゲームセンターは、社会の目が届かない不磨の聖域だ。一九八〇年という、バブルへと向かう狂騒の足音が聞こえる時代。若者たちの有り余ったエネルギーは、時に法の外側でどす黒く凝縮される。
久保寺は、一人で動くことを決めた。
泥に汚れた革靴を鳴らし、T市の路地裏を這いずり回る。聞き込みを開始して三日。街は沈黙を守っていた。大人たちは報復を恐れて目を逸らし、少年たちは薄笑いを浮かべて警察を嘲る。
だが、三日目の放課後。中学校の裏門近くで、一人の少年の肩を掴んだ。
少年は、久保寺の爛々と光る眼光に射すくめられ、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「……美咲さんのことだ」
久保寺の声は、低く、地這うような響きを持っていた。
「知らない……俺は、何も見てないんだ」
少年の指先が、痙攣したように震えている。久保寺はその震える手首を、万力のような力で掴み上げた。
「嘘をつくな。お前のその震えは、知らない者の震えじゃない。知っている者の震えだ」
久保寺は少年の顔を至近距離まで引き寄せた。
「あの日、ゲームセンターの裏だ。お前は、あいつらが彼女を運ぶのを見た。T市の『連中』を。リーダーのバイクの色は……赤だったな?」
少年の顔から、一気に血の気が引いた。
「言ったら……言ったら、僕もあんな風にされる……」
少年の喉が、ひっくと鳴った。
「あいつら、人間じゃないんです。コンクリートを混ぜながら……ドラム缶を回しながら、みんなで笑ってたんだ。あの子が、中で泣いてるのに……」
少年の絞り出すような告白が、放課後の静まり返った廊下に、毒のように広がっていく。
久保寺の脳裏に、あの灰色の塊から突き出ていた白い指が蘇る。
加害者は、同じ制服を着た十代の少年たち。
この閉塞した工業地帯で、彼らは一体、どこで「獣」になったのか。
「……安心しろ。俺が守る。地獄まで追いかけてでも、そいつらを捕まえる」
久保寺は、少年の肩を抱き寄せた。その手の温かさが、唯一の現実であるかのように。
窓の外では、灰色の雪が舞い始めていた。
T市の重工業地帯から吐き出される煤煙が、少女の最期の悲鳴を塗り潰すように、夜の闇へと溶けていく。
久保寺の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。




