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琥珀の檻(こはくのおり)  作者: 水前寺鯉太郎
刑事編

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3/15

聖域の解体

 三月。T市の湿った雪は、地面に落ちるそばから泥と混じり、黒い染みとなって街を汚していた。

 T県警から「一か月の停職処分」を言い渡された久保寺耕介は、身分証も拳銃も取り上げられ、ただの「くたびれた中年男」として街に放り出された。だが、彼の瞳に宿る熱は、冷えるどころか白熱電球のように静かに燃え盛っていた。

 彼は自宅の狭い六畳間に、事件の資料を広げていた。

 中心にあるのは、ビニール袋に封じ込められた一個のボタン。河村隆のスカジャンから毟り取ったそれと、美咲の口内に残されていた破片。

 顕微鏡などない。だが、ルーペ越しに見るそれは、断面の摩耗も、特注の裏彫りも、完全に一致していた。

「……これだけじゃ足りないんだ。まだ、あいつらを監獄へ叩き込むには」

 久保寺は、安物のウイスキーを喉に流し込んだ。

 河村組の背後には、警察上層部と繋がる強固な「パイプ」がある。物証一つで彼らを挙げれば、証拠品は警察内部で「紛失」されるのがオチだ。

 必要なのは、言い逃れのできない「自供」か、あるいは組織そのものを焼き尽くす「スキャンダル」だ。

 久保寺は、重い腰を上げた。向かったのは、警察官としてではなく、一人の「父親」としての戦場だ。

 T市郊外にある、建設廃材の集積場。

 深夜、重機の影が巨大な恐竜のようにうごめくその場所で、二人の少年が火を囲んでいた。副リーダー格の佐々木と、市議会議員の息子、阿部だ。

 河村が「警察に目をつけられている」と知って以来、彼らはここで怯えながら、夜を明かしていた。

「……なあ、河村の親父がなんとかしてくれるんだろ?」

 阿部が震える声で尋ねる。議員の息子という肩書きは、この暗闇では何の盾にもならない。

「当たり前だ。あのドラム缶だって、親父の会社が埋立地の奥深くに沈めてくれるはずだったんだ。……あの指さえ、飛び出さなけりゃな」

 佐々木が苛立たしげに空き缶を蹴った。

 その時、集積場の入り口に、一台の黒いセダンがライトを消したまま滑り込んできた。

 車から降りてきたのは、コートの襟を立てた久保寺だった。その手には、警棒ではなく、現場から持ち出した「鉄筋の端材」が握られている。

「……誰だ、おっさん!」

 佐々木が立ち上がる。だが、久保寺の歩みは止まらない。

「お前たちが笑いながらコンクリートを混ぜていた時、彼女がどんな音を立てていたか、覚えているか?」

 久保寺の声は、地底から響くような不気味な静けさを湛えていた。

「美咲さんの喉がセメントで塞がるまで、お前たちは何分間、その音を楽しんだ?」

「うるせえ! 消えろよ停職デカ!」

 佐々木がバタフライナイフを抜き、飛びかかってきた。

 久保寺は避けなかった。ナイフが頬をかすめ、熱い血が流れる。だが、その瞬間に久保寺の鉄筋が、佐々木の膝を正確に砕いた。

 鈍い、嫌な音が静寂を切り裂く。

 悲鳴を上げる暇もなく、久保寺は佐々木の胸ぐらを掴み、地面に叩きつけた。

「痛いか? ……彼女の痛みは、こんなものじゃない。骨が折れ、皮膚が焼け、意識が遠のく中で、お前たちの笑い声だけを聴いていたんだ」

 久保寺の顔は、返り血を浴びて鬼のようだった。

 逃げようとした阿部の襟首を、もう片方の手で捕まえる。

「助けてくれ! 僕は見てただけだ! 河村が、河村がやれって言ったんだ!」

 阿部が涙と鼻水にまみれて叫ぶ。

「……そうか。なら、その言葉をすべて、このテープに吹き込んでもらおう」

 久保寺はポケットから、カセットテープレコーダーを取り出した。

 それは警察の備品ではない。自費で購入した、彼だけの武器だ。

「全部話せ。河村がどう指示し、誰がドラム缶を用意し、どの役人がそれを黙認したのか。一文字でも漏らせば、次はお前の足を、そのコンクリートミキサーに放り込む」

 久保寺の瞳には、一切の躊躇がなかった。

 彼は知っている。法で裁けない悪を、地獄に引きずり戻すには、自らも地獄の住人になるしかないのだと。

 翌朝。T県警本部の村瀬係長のデスクに、一本のカセットテープと、血のついたボタンが置かれていた。

 そして、それらを置いた久保寺の姿は、すでに署内にはなかった。

 久保寺は、T市を見下ろす丘の上にいた。

 手の中には、娘の遺影がある。美咲の事件を追う中で、彼は自分自身の過去とも対峙し続けていた。

「……美咲さん。まだ、終わっちゃいない。主犯の首を獲るまでは」

 丘の下では、河村組の本社ビルが朝日を浴びて輝いている。

 久保寺は最後の一本となったハイライトに、今度は火をつけた。

 肺に染み渡る煙は、これまでで一番苦く、そして熱かった。

 警察官としての久保寺耕介は死んだ。

 だが、一人の復讐者としての彼は、今、この街のどす黒い真実を喰らい尽くすために、歩き出した。

 灰色の雪が止み、雲の隙間から、ナイフのような鋭い陽光が差し込み始めていた。

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