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琥珀の檻(こはくのおり)  作者: 水前寺鯉太郎
探偵編

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14/15

瓦の墓標、泥の鎮魂歌

 一九八三年、九月二十二日。

 S市北区の端に位置する瓦工場は、かつての活気を失い、巨大な廃墟のように静まり返っていた。再開発という名のコンクリートに取って代わられた、古い土の時代の死骸。積み上げられた瓦の山は、月光を浴びて無数の墓標のように連なっている。

 久保寺耕介は、夕闇に溶け込むようにしてその敷地へ足を踏み入れた。秋の虫の声は、彼の纏う殺気によって断ち切られ、代わりに聞こえてくるのは、古びた焼成炉の煙突が風に鳴らす、獣の呻きのような風切り音だけだった。

1. 亡霊の住処

 工場の一角にあるプレハブの事務所から、針の穴のような細い光が漏れていた。久保寺は佐伯の手帳を内ポケットの上から強く握りしめ、足元の瓦の破片を慎重に避けながら、じりじりと間を詰めた。

 戸の隙間から覗いた室内は、生ぬるい死の気配に満ちていた。

 机に座り、黙々と砥石で刃を研いでいる大柄な男。真犯人、望月。

 元自衛官という経歴を体現する無駄のない筋肉と、他者の苦痛を解さない爬虫類のような瞳。その傍らには、石巻家の子供たちが最後に見たであろう、あの鋭利な特殊ナイフが鈍い光を放っていた。

「……客か。入りなよ。鍵をかける習慣はないんだ」

 望月は顔も上げずに言った。超人的な聴覚ではない。常に誰かの息の根を止める機会を窺っている者だけが持つ、野生の嗅覚だ。

 久保寺は隠し持っていた拳銃を構え、蹴破るように扉を開けた。


「望月。一九八三年、六月。石巻家でお前がやったことは、すべてこの手帳に書き残されている。……佐伯がお前の命を買い取ったんだ」

 久保寺の声は、かつてないほど低く、地這うような響きを持っていた。

「佐伯? ああ、あの若造か。いい根性してたが、死に際が騒がしかったな」

 望月がようやく顔を上げ、唇の端に薄笑いを浮かべた。

「俺は河村不動産の掃除屋だ。汚れを落とすのが仕事で、あんたみたいな『正義の燃えカス』の後始末は、本来なら専門外なんだがな」

 望月が動いたのは、その刹那だった。

 久保寺が引き金に指をかけるよりも速く、望月は卓上のナイフを弾丸のように投げつけ、デスクを蹴り倒して肉薄した。

 久保寺は間一髪で首を捻ってナイフをかわしたが、突進してきた望月の掌底が手首を叩き、銃が床へ転がり落ちる。事務所の狭い空間で、二人の「獣」による、骨を砕き肉を断つ凄惨な肉弾戦が始まった。

 望月の突きは正確無比で、久保寺の肋骨を一本ずつ、容赦なく砕きにかかる。久保寺は肺を圧迫される痛みで吐血しながらも、刑事時代に培った泥臭い組手で応戦する。それは技術ではない。ただ「相手を殺す」という純粋な執念のぶつかり合いだった。

「石巻の子供たちは、お前に命乞いをしたか! ななみは……三年前、俺の娘は、あのコンクリートの中でどんな顔をして死んだ!」

 久保寺の咆哮が、壁を突き破るように響く。三年前から腹の底で燃え続けていた業火が、今、暴力となって噴出した。


 二人はもつれ合いながら窓を突き破り、工場の外、瓦の山が崩れる中へと転がり出した。

 降り始めた雨が、久保寺の顔の血を洗っていく。泥と血にまみれた久保寺は、足元に落ちていた鋭利な瓦の破片を掴み、望月の首筋に深く突き立てた。同時に、望月の隠し持っていたナイフが、久保寺の脇腹を深く抉った。

「……終わらせようぜ、望月。お前も、俺も、この狂った時代の犠牲者だ」

 久保寺は、折れた肋骨が内臓を刺す痛みを押し殺し、望月の首を万力のように締め上げた。視界が白く霞み、意識が遠のく。だが、その腕だけは緩まない。

「だがな……子供の未来を喰って生き残る奴にだけは、この一九八三年の先を……朝を、見せるわけにはいかないんだ」

 望月の瞳から、爬虫類のような狡猾な光が消えるまで、久保寺は手を緩めなかった。

 やがて、巨体が重く泥の上に沈む。瓦の山が崩れる音だけが、鎮魂歌のように周囲を支配した。

 久保寺は、血に染まった手を冷たい雨に晒した。内ポケットから取り出した佐伯の手帳は、雨に打たれてさらに黒ずんでいたが、そこにある「魂の熱量」だけは、今も久保寺の胸を焼き続けていた。

 一九八三年、九月二十二日。

 一匹の狼は、かつての部下を、そして娘を殺した「時代」を、その手で葬った。

 だが、久保寺の戦いはまだ終わらない。この背後にいる、真の「巨悪」がまだ息をしている。

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