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琥珀の檻(こはくのおり)  作者: 水前寺鯉太郎
探偵編

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13/15

第13話:血の遺言状(レクイエム)

 一九八三年、九月十七日。

 台風が過ぎ去ったS市の空は、皮肉なほど透き通った秋の気配を湛えていた。

 世界は洗い流されたように輝いている。だが、雑居ビルの三階「久保寺調査事務所」の室内だけは、腐った潮風と乾いた血の匂いが淀んだままだ。

 久保寺耕介は、窓を閉め切り、遮光カーテンの隙間から差し込む一筋の鋭い光を頼りに、デスクに深く沈んでいた。

 その指先は、どす黒く変色している。数日前、搬入口のコンクリートの上で、佐伯の体温と一緒に溢れ出した血だ。何度洗っても、爪の間に入り込んだその記憶だけは、この世に留まることを固執し、落ちることを拒んでいた。

 デスクの中央には、一冊の警察手帳が置かれていた。

 旭日章が刻印された表紙は雨に濡れて波打ち、所々に佐伯の指紋が、まるで最期の断末魔のように血で転写されている。久保寺は、それがまだ熱を帯びているかのような錯覚を覚え、壊れ物を扱うような手つきでその表紙をめくった。

 ページをめくるたび、佐伯の数年間の地獄が、書きなぐられた文字から溢れ出してきた。

 最初は、T市時代の懐かしい捜査メモ。久保寺が叩き込んだ「現場百回」「遺体は嘘をつかない」という教えが、青臭いほど丁寧に記されている。だが、一九八一年を境に、記述は断片的になり、数字と記号、そして歪な隠語が増えていく。組織の腐敗に呑み込まれ、自分自身を見失いそうになる若者の、悲鳴のような記録だった。

 中ほどまでめくったとき、久保寺の指が凍りついたように止まった。

 九月十三日の日付の横に、震える筆致で、だが明確な殺意を込めてこう記されていた。

『石巻家、実行犯。M・H。住所:S市北区……』

「……M・H」

 久保寺はそのイニシャルを喉の奥で転がした。さらに頁を繰れば、そこには公式な捜査記録が「決して」触れることのない、佐伯独自の、命を削った裏捜査の全貌が広がっていた。

 石巻家を惨殺したのは、暴走族でも土地転がしの素人でもなかった。

 河村不動産が「掃除屋」として飼い慣らしている、元自衛官の男。その実家は、再開発の波に取り残され、骸骨のように立ち並ぶS市北区の古い瓦工場。

 さらに、佐伯は警察内部で河村に魂を売った「裏切り者」たちの実名まで、返り血のようなインクで書き残していた。

「署長に刑事課長……。どいつもこいつも、コンクリートの城の住人か」

 久保寺は手帳を閉じ、深く椅子にもたれかかった。

 佐伯は、この手帳を久保寺に渡すために、あの日、地下金庫へ向かったのだ。自分が汚れ役を引き受け、泥水をすすってでも、久保寺という「折れない刃」を温存するために。

「……済まなかったな、佐伯。お前を一人にさせた」

 久保寺は、引き出しの奥から一九八〇年のT市の事件で使った、古い鋼鉄製の手錠を取り出した。それをデスクに置くと、佐伯の手帳と重なり、冷たい金属音が響く。

 佐伯の命を飲み込んだこの手帳は、もはや単なる証拠品ではない。それは、一人の若い刑事が地獄の底で書き上げた、血塗られた遺言状であり、久保寺への「引導」だった。

 一九八三年、九月十七日。

 久保寺の瞳に、かつての「鬼」の火が、青白く、決して消えない静かな強さで灯った。

 彼はヨレヨレのトレンチコートを羽織り、佐伯の手帳を内ポケット――心臓に一番近い場所へ深く沈めた。

 行き先は、一つしかない。

 S市北区、瓦工場。

 そこが、一九八〇年から降り続く血の雨を止め、この残酷な時代の「決算」をつけるための祭壇になる。

「ななみ、美咲さん……そして、佐伯。……行ってくる」

 久保寺は事務所の鍵をかけることなく、秋の透明な光の中へと踏み出した。

 その背中は、どんな権力よりも硬く、冷たい。

 一匹の狼が、群れを食い殺した獣の喉笛を噛み切りに、静かに歩き始めた。

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