豪雨の弔鐘
一九八三年、九月十三日、未明。
台風がもたらした豪雨は、街のすべての汚れを暴くかのように叩きつけ、地下の排水管は濁流となって不気味な重低音を響かせていた。
「立て、佐伯。死にたくなければ俺についてこい」
久保寺は、動揺と恐怖で膝を突く佐伯の腕を強引に引き上げた。コートの奥で、フィルムを飲み込んだカメラが鉛のような重みを増している。地下の静寂を切り裂き、廊下の向こうから近づく複数の靴音。それは法を守る者の歩法ではない。獲物を追い詰める、迷いのない「始末屋」の足音だ。
「……久保寺さん、俺は……もう」
「喋るな。お前をこの汚泥の中に置いていくほど、俺は冷徹にはなれん。……まだな」
久保寺は佐伯の肩を担ぎ、非常階段の濃い闇に身を潜めながら、一歩ずつ地上へと這い上がった。背後では、金庫室の扉が乱暴に蹴り開けられる残響が。追手との距離は、もう十メートルもない。
一階搬入口。雨風が吹き込む出口の扉が、闇の中で青白く浮かび上がっていた。あそこを抜ければ、暴風雨がすべてを隠してくれる。
「走れ!」
久保寺の短く鋭い号令とともに、二人は土砂降りの外へと飛び出した。
――ッ、パン!
――ッ、パン!
雨音を切り裂く、乾いた銃声。
久保寺のすぐ隣で、佐伯の体が不自然に、まるで見えない糸で吊り上げられたかのように跳ねた。
「……がっ、あ……」
佐伯がくぐもった声を上げ、前のめりに倒れ込む。コンクリートの地面に広がった雨水は、一瞬にして鮮烈な赤に染まり、排水溝へと吸い込まれていった。
「佐伯!」
久保寺は反射的に彼を抱き起こし、搬入口のコンクリート柱の陰へと引きずり込んだ。佐伯の左胸、つなぎの生地が急速に黒ずんでいく。そこから溢れ出す熱い血は、久保寺の指を滑り、雨に打たれる彼の顔は瞬く間に土色へと変わっていった。
「馬鹿な、佐伯。しっかりしろ。今、止血を……」
「……逃げ、て……ください……久保寺、さん……」
佐伯は震える手で久保寺の濡れたコートを掴んだ。その瞳には、死への恐怖ではなく、重い鎖から解き放たれたかのような、透き通った安堵の色が浮かんでいた。
「俺……本当は……あの日、T市で……あんたと一緒に、地獄まで……行くべきだったんだ。……これなら、やっと、笑える……」
「喋るな! 肺に血が入る!」
「これ……預かって、ください……」
佐伯は血に染まった自分の手帳を、久保寺の掌に無理やり握らせた。
「石巻家の……真犯人の、実家の、住所……。警察の中にも……まだ、数人……協力者が……います。……信じて、ください……」
雨のカーテンの向こう側。追手たちの影が、巨大な獣のように蠢きながら近づいてくる。
「いたぞ! あそこだ、仕留めろ!」
怒号とともに、無数の銃口が暗闇の中で二人を狙う。
「行け……! そのフィルムを……光に、当てて……くれ……!」
佐伯は、残された最後の力を、久保寺の背中を突き飛ばすためだけに使い切った。
久保寺は、佐伯の瞳に宿った最期の、そして生涯で最も美しい「刑事」としての輝きを、網膜の奥に焼き付けた。
一九八三年、九月十三日。
一九八〇年から続いた悪夢は、かつての後輩の命を飲み込み、さらなる深淵へと久保寺を誘っていく。
久保寺は血に汚れた手帳を握りしめ、咆哮を上げる風の中へと、一匹の狼のように駆け出した。
背後で、三発目の銃声が響いた。
久保寺は一度も振り返らなかった。頬を伝うのは雨か、それとも。
「……佐伯。お前の地獄は、俺が引き継ぐ」
彼は暴風雨が荒れ狂うS市の中心部へと、闇を切り裂いて消えた。
フィルムに刻まれた「真実」と、手帳に記された「執念」。二つの武器を抱えた男の戦いは、今、完全なる「私刑」の領域へと突入した。




