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琥珀の檻(こはくのおり)  作者: 水前寺鯉太郎
探偵編

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煉獄の銃口、魂の決算


 一九八三年、九月十二日。

 地下金庫の重厚な空気は、一瞬にして鉛のような重苦しさに変貌した。

 久保寺耕介の持つペンライトの細い光が、佐伯の握る拳銃の銃口を、残酷なほど白く縁取っている。サイレンサーが装着されたその無機質な筒先は、久保寺の眉間を一点の曇りもなく射抜いていた。

「佐伯……。その引き金を引けば、お前の世界からは永遠に『朝』が消えるぞ」

 久保寺は一歩も動かない。背後にある鋼鉄の扉から伝わる冷気が、つなぎ越しに背中に張り付き、生身の体温を奪っていく。

「『朝』なんて、あんたが組織を去った日に捨てましたよ、久保寺さん」

 佐伯の声は、かつて久保寺を「師匠」と呼んで慕っていた頃の瑞々しさを失い、ひどく掠れていた。その瞳には、寝不足と罪悪感が混じり合った濁った光が宿っている。

「あんたがいなくなってから、T市の署内がどうなったか知ってるか? 河村の金を受け取らない奴は、文字通り『埋め立てられた』んだ。俺が今日ここに立っているのは、正義のためじゃない。生き残るための、泥水をすするような選択なんですよ」

 佐伯の指が、ゆっくりと、震えながら引き金に力を込めていく。

 久保寺は、コートのポケットの中で小型カメラの冷たい感触を握りしめたまま、極限まで静かに呼吸を整えた。刑事時代の経験が、佐伯の僅かな動揺を克明に捉えていた。銃を持つ右手が、一ミリにも満たない幅で、断続的に痙攣している。

「いいだろう。引けよ、佐伯」

 久保寺は、あえて銃口に向かって一歩前へ踏み出した。死への恐怖を塗り潰すのは、背負ってきた死者たちの重圧だ。

「ただし、忘れるな。お前が今殺そうとしているのは、目の前の薄汚れた探偵じゃない。お前自身の心に残った、最後の『デカの魂』だ。そいつを殺して、お前はこの一九八〇年代の狂った金色の波を、最後まで泳ぎ切れると思っているのか?」

「黙れ……! あんたのその、カビの生えた説教は聞き飽きたんだ!」

 佐伯の叫びとともに、ハンマーが落ちる乾いた音が響いた。

 ――ッ、パン。

 サイレンサー越しの、心臓の鼓動を止めるような鈍い発砲音。

 久保寺は反射的に体を捩った。熱を帯びた弾丸が彼の耳元を焼き、背後の金庫扉に当たって不快な金属音を立てて跳ねた。火花の残像が、暗闇を一瞬だけ切り裂く。

「外したな。……いや、外れたのか」

 久保寺は低く、地這うような声で呟いた。

「……わざとじゃない。俺は、本気で、あんたを……」

 佐伯の顔に、隠しきれない動揺と絶望が広がる。二発目を撃とうと銃口を立て直したその刹那、久保寺の手から、破壊して抜き取ったばかりの重厚な金庫のダイヤル部品が撃ち放たれた。

 鋼鉄の塊が佐伯の右手を直撃し、鈍い破砕音が響く。拳銃が床を滑り、コンクリートの隅へと転がり落ちた。

「佐伯、お前にはまだ、人を殺す覚悟も、悪に染まりきる才能もない。中途半端な地獄が一番苦しいんだぞ」

 久保寺は一気に距離を詰め、佐伯の胸ぐらを掴んで冷たい壁に叩きつけた。鼻先が触れ合うほどの距離。久保寺の瞳に宿る狂気にも似た「魂の熱量」が、佐伯の戦意を根こそぎ奪い去っていく。

「このフィルムを持って、俺はここを出る。お前が俺を逃がしたことが露見すれば、お前も『埋め立て』の対象だ。……だがな、今ならまだ、俺と一緒に泥を食いながら地獄を這いずり回る道があるぞ」

 地下廊下の向こうから、複数の足音が反響して近づいてくるのが聞こえる。公社の守衛か、それとも河村が送り込んだ、情け容赦のない本物の「始末屋」か。

「選べ。ここで俺と無意味な死を迎えるか。それとも、このフィルムを世に送り出すための、俺の『盾』になるか。……ななみや、石巻の子供たちを、これ以上暗闇の中に放っておくつもりか!」

 久保寺の叫びは、佐伯の奥底に眠っていた「何か」を激しく揺さぶった。

 一九八三年、九月十二日。

 嵐の夜、地下深くの閉ざされた聖域で、二人の男の運命が火花を散らしながら交錯していた。

「……鍵は、非常口のC階段にあります」

 佐伯が、折れた右手を抑えながら、血の混じった唾を吐き捨てた。

「その代わり、久保寺さん。……全部、焼き払ってください。俺たちの街を、こんなふうにした奴らを、一人残らず」

「ああ。約束する」

 久保寺は佐伯の肩を一度だけ強く叩き、闇の中へと駆け出した。

 背後で、新たな追っ手たちの怒号が響き始める。

 一九八三年。バブルの狂騒が始まる直前、一人の男が手にした小さなフィルムが、巨大な権力という名のコンクリートに、決定的な亀裂を入れようとしていた。

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