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琥珀の檻(こはくのおり)  作者: 水前寺鯉太郎
探偵編

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10/15

鋼の墓標、沈黙のフィルム

 一九八三年、九月十二日。

 台風の接近を告げるS市の夜は、湿り気を帯びた突風が街路樹を狂ったように揺らし、街全体が巨大な鳴き声を上げているようだった。

 S市土地開発公社本庁。その地下深くには、街の再開発という美名の下で行われた「略奪」と、子供たちの血で贖われた「汚れた金」の記録が眠っている。

 久保寺耕介は、油の染みた作業員風のつなぎに身を包み、裏口の搬入口付近、コンクリートの死角に同化していた。

 手には、拷問に近い訊問で進藤から吐かせた通用口の合鍵。そして、かつて捜査一課の「鬼」として培った、法を掻い潜るための潜入技術。

 今の彼にとって、この庁舎はかつての仲間がいる場所ではなく、自分を「不法侵入者」として射殺しかねない敵陣の真っ只中だ。

 深夜二時。

 守衛の巡回が入れ替わる、わずか一分二十秒の空白。

 久保寺は影のように滑り出し、音もなく内部へ滑り込んだ。

 非常階段を一段ずつ、体重移動だけで下りていく。地下二階。冷房の止まった廊下は、コンクリートの湿った冷気と古い書類の黴臭さが混じり合い、三年前、T市の解剖室で嗅いだ「死の臭い」を久保寺の脳裏に呼び覚ました。

 廊下の突き当たり。そこには最新式の電子ロックなど存在しない、重厚な鋼鉄の金庫扉が、巨大な墓標のように立ちはだかっていた。

 久保寺は懐から聴診器を取り出し、冷たい金属のダイヤルに当てた。指先の指紋を削り取るような集中。

 ――カチリ。

 鼓膜に直接響くような微かな手応え。一九八〇年代という時代の、まだアナログな正義が、物理的な衝撃として指先に伝わる最後の瞬間。

 久保寺は、自らの心臓の鼓動さえも制御し、鋼鉄の牙城を内側から解体していった。

 重い扉が、錆びた呻きを上げて開いた。

 金庫室の棚には、街を食い潰した欲望の残骸が、整然とファイリングされていた。その最奥、進藤が震えながら口にした「河村不動産」のラベルが貼られた、黒い革表紙のファイル。

 久保寺がそれを開き、ペンライトの細い光で照らし出すと、そこには街の「血統図」が記されていた。

 石巻家の土地買収費用から逆算された「工作資金」。

 県警幹部、市議会議員、そして市長の名前。その横には、一九八〇年のT市事件で河村組を庇い、汚職の末に消えたはずの、あの村瀬元係長の名前までが汚れたインクで刻まれていた。

「……死んでもなお、街を塗り潰しているのか。村瀬さん」

 久保寺の呟きは、怒りよりも深い悲哀を含んでいた。

 彼は隠し持っていたミノックスの小型カメラを構え、無機質なシャッター音を響かせ続けた。

 このフィルムの一コマ一コマが、石巻家の子供たちの、そして第十四埋立地で冷たくなっていた「ななみ」の無念を、社会の喉元に突き立てるための弾丸になる。

 作業を終え、久保寺が金庫室の重い空気を振り払おうとした、その時だ。

 廊下の向こうから、統制された複数の足音が、コンクリートに反響して近づいてきた。

「……そこまでだ、久保寺さん。いや、久保寺さんとはもう呼べないな」

 聞き覚えのある、若く、乾いた声。

 暗闇の中から現れたのは、かつて久保寺が手取り足取り捜査を教えた後輩であり、今は県警の「掃除屋」に成り下がった男、佐伯だった。

 佐伯の手には、不自然に膨らんだ消音器サイレンサー付きの拳銃が握られ、その銃口は迷いなく久保寺の眉間を捉えていた。

「そのフィルムを渡してください。あんたはもう、正義の味方じゃない。ただの『建造物侵入者』だ。ここで消えても、誰もあんたを同情しませんよ」

 久保寺は、コートのポケットにフィルムを静かにねじ込み、不敵な笑みを浮かべた。その瞳は、銃口を向けられながらも、獲物を逃さない鷹の輝きを失っていない。

「佐伯。お前も、あのドラム缶の中に、子供たちと一緒にコンクリートを流し込む側に回ったのか?」

「時代が変わったんですよ。コンクリートはこの街を豊かにし、俺たちの給料を守ってくれる。あんたみたいに、古い骨を掘り返して喜ぶ人間は、もうこの街には居場所がないんだ」

 地下金庫の閉ざされた空間で、佐伯の指が引き金にかかる。

 嵐の前の静寂が、久保寺の深く、重い吐息を飲み込んでいく。

 一九八三年、九月。

 かつての師弟は、法という名の残骸を挟んで、殺し合う「獣」として対峙した。

 久保寺の手が、つなぎの隠しポケットに忍ばせた「別の重み」に触れる。

 死ぬのは、まだ先だ。ななみが待っているのは、こんな暗い地下室じゃない。

「……撃てよ、佐伯。だがな、お前のその弾丸、俺の執念を貫けるほど重いのか?」

 廊下の奥から、台風の風圧で叩きつけられる建物の軋みが、遠い叫びのように響き渡った。

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