11 姫りんご (誘惑) -side キャルム-
貴族学園へ入学し、10日過ぎ学園生活に慣れてきた頃、授業が終わり帰宅のために一人で馬車留めへ向かい歩いていたキャルムはフィーネを見かけた。
フィーネは同じクラスのブラッグ伯爵令息と二人きりで、ブラッグ伯爵家の馬車へ乗り込む直前、ブラッグ伯爵令息の手を取って片足を馬車のステップに乗り上げたところ。
無視しようと、キャルムは思った。
キャルムとフィーネは同じクラスではあるものの入学からこの10日間接点はなく、初対面で「笑わなければいい」と言われた3ヶ月前から一言も話をしたことがない状態。
入学当初、おそらくノーラの手紙のおかげだろう、キャルムはフィーネが令嬢から声をかけられている様子を見かけていた。それと同じくして、キャルムと同じようにアクランド伯爵家の生贄の歴史を知っている者だろう、歴史の長い高位貴族家の令息から積極的に声をかけられている様子も見かけていた。
あのキャルムとの初対面からは信じられないのだが、フィーネはオドオドとしていて恥ずかしそうに令嬢や令息と話していたのが印象深い。
見ないようにと思えば思うほど、キャルムはフィーネを意識し観察してしまっていた。
通常、伯爵家の庶子に高位貴族の令息の方から声をかけるなどありえない。
各家の方針にもよるだろうが、高位貴族でも令嬢の場合は秘匿された家史を教わらない。令嬢たちや生贄の歴史を知らないだろう令息の間では、フィーネの方から積極的に高位貴族令息へ声を掛けているのだと勘違いしているようだ。
入学から10日経った今では、フィーネはふしだらな令嬢だと令嬢たちの間からすっかり浮いてしまっている。
ブラッグ伯爵令息の馬車に乗り込もうとしているフィーネ。
婚約者ではない出会って10日ほどの異性と二人きりで馬車へ乗るなど、貴族の令嬢ならばありえない。それがつい3ヶ月前まで平民として暮らしていた庶子だとしても関係ない。
このままフィーネが行方不明になったとて、今フィーネと一緒にいるブラッグ伯爵令息がシラを切ったら、それで終わりかねない状況。彼とフィーネが一緒にいるところを見かけた人がキャルムの他にいたとしても、ありえないと断じられるだろう。
無視しようと、キャルムは思った、のだ。
でも、あの、家史に描かれた挿絵がまぶたの裏に浮かんでしまった。黒いナイフで心臓をくり抜かれている少女とフィーネを重ねて想像してしまった。
「ブラッグ殿、すまない。今日はフィーネ嬢をタウンハウスへ送り届けるようにアクランド伯爵から頼まれているのだ。……フィーネ嬢はこちらへ」
フィーネがまさにブラッグ伯爵家の馬車へ乗り込む寸前、キャルムはブラッグ伯爵令息へ声をかけていた。
衝動的に動いたと認めよう。
目を大きく見開いてキャルムを見てくるフィーネの青い瞳を見て、ノーラの青い瞳の方が深く濃い青だな、などと関係ないことを思い、無視できなかったことに舌打ちしたい気持ちをごまかす。
「それは仕方ありません。フィーネ嬢が市井を案内してくれると言われたのですが、今度に致しましょう。……では、明日また学園で」
ブラッグ伯爵令息は人好きのする笑顔を浮かべ引き下がり、キャルムとフィーネを馬車留めへ残し、ブラッグ伯爵家の馬車は去っていった。
ブラッグ伯爵家は歴史が長いが、古くからあるのにも関わらず伯爵から陞爵していない家。だからこそ、アクランド伯爵家の魔力を欲したのかもしれないが、ダリモア辺境伯令息のキャルムの方が家格も家の力も強いためあっさりと撤退してもらえた。
「えっと、確か前にお屋敷で見かけました人ですよね?パパと知り合いですか?」
二人きりになり、おずおずといった様子でキャルムへ声をかけてきたフィーネ。眉を下げ、上目遣いでこちらを見てくる。
「僕はキャルム・ダリモア。君の妹ノーラの婚約者だけど聞いてない?」
キャルムは自身が将来アクランド伯爵家に婿入りする立場だと言外に少しの怒りを滲ませる。フィーネの軽率な行動に怒る理由があると示したつもりだが、目を瞬き首を傾げているフィーネには伝わっていない様子だ。反応が遅いだけで1聞けば10理解できる賢いノーラとの違いを感じ、キャルムは思わず漏れ出そうになったため息を我慢する。
「つまり、将来僕はアクランド伯爵家の人間になる。だから、君の軽はずみな行動を諌める権利は充分あると思うよ」
「ごめんなさいっ!私が前に住んでた家の近所のお店に行きたいって言われて、少し寄り道しようとしただけなんですけど、えっと、それがダメだったってことですよね?私にはどこがどうダメなのか分からなかったので、”軽はずみ”の意味を教えてほしい、デス……」
自分が知らないことを知らないと認め、素直に教えを乞う。貴族として、他家の人間に行うのはありえない。
だが不思議と不快感はない。つい数秒前までフィーネの無知さに呆れていたはずだったのに、じわじわと心を許している自分にキャルムは気づいていない。
……ぽつり。
脳天に一粒の雫が落ちた感触にキャルムは思わず空を見上げたが、雲は遥か遠い西の空に少しあるだけで空は晴れている。キャルムが『お天気雨か?』と考えると同時、晴れた空から霧のような小雨が降り始めた。
王弟には、”外出する度に雨が降る呪いがかけられている”という噂がある。そのため、ここ王都で村雨やお天気雨が降ると、王弟にかけられた呪いのせいだと見なされる。
このお天気雨を辿って行ったら王弟の頭の上まで続いているのかもしれないなどと考え、王城で見かける王弟の、身体全体、顔までも黒い布で覆い隠した異様な姿を思い出し、不敬だとは思いつつ、この雨すら不気味に感じてしまう。
フィーネを見ると不安そうに青い瞳を揺らしキャルムを見つめている。アクランド伯爵家の馬車は、フィーネがブラッグ伯爵令息の馬車へ乗る前に先に帰してしまっていたようで、今から戻ってくるように連絡すると時間がかかるだろう。
突然の雨で仕方ないのだと誰に対してか言い訳し、キャルムはダリモア辺境伯家の馬車へフィーネを乗せた。晴れ空の雨の中をキャルムとフィーネは同じ馬車へ乗り、アクランド伯爵家のタウンハウスへと向かった。
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「……つまり、”聖獣に好かれる魔力”というだけで、アクランド伯爵家の人間は狙われてしまうんです。今、アクランド伯爵とノーラが何事もなく過ごせているのは、二人が雨乞いをしなければアクランド領に大きな損害が出ることが周知されているからであって、その抑止力はフィーネ嬢へは適用されません」
いつもノーラとお茶を飲んでいたアクランド伯爵家のタウンハウスの応接室。小雨だったお天気雨は通り過ぎ、窓の外からは夕日が差し込んでいる今、キャルムはアクランド伯爵とフィーネの対面に座り、3人でお茶を飲んでいる。
無視するはずだったというのに、アクランド伯爵へ警告までしてしまっているが、この際仕方ないだろう。
「フィーネ嬢の身体に流れる魔力を欲し、拉致・誘拐を企む輩は少なくない、ということです」
フィーネは首をすくめて震え出し、二人がけの椅子で隣に座っているアクランド伯爵がすかさずフィーネの背を撫でている。
キャルムには女の兄弟がいないため、ダリモア辺境伯の父が娘に対する態度を見たことがない。そのため貴族として一般的な娘への接し方を知らないが、アクランド伯爵のフィーネへの振る舞いが普通よりもだいぶ甘いことは分かる。
無表情でも口角が上がった口元のためか常に穏やかな笑顔を浮かべている印象があるアクランド伯爵だが、今はその顔を心配で歪めている。
「怖かったら学園を辞めたっていいんだよ?フィーはどうしたい?」
フィーネへそう問いかけているアクランド伯爵は、本当に考えなしなのだろう。右も左もわからない成人していない令嬢に決定権を委ねている。その無責任な言葉からは、彼が将来的にフィーネをどうしたいのかすら分からない。
アクランド伯爵と話をするたびに思うことだが、思慮のない浅はかな人間の腹の内を探るのは、知略に長け悪賢い人間の思考を読むよりも遥かに難しい。
「フィーネ嬢の存在が世間に知られてない時なら、しっかりと護衛を付けて守ることが一番有効だったでしょう。でも、今更、社会との繋がりを絶ってしまうのは悪手でしかない。相手の思うツボです。あえて、このまま堂々と学園へ通う方が却って安全です。まぁ、本人が危険を自覚して迂闊な行動をしないことが大前提ですが……」
「私、ちゃんと気をつける!でも、まだ貴族のことは分からないことだらけで、不安で……」
子猫のように身を縮めて恐怖を表しているフィーネが、縋るようにキャルムを見つめてくる。
「キャルムくん!フィーのことを助けてほしい。将来、婿入りしてくる君だけが頼りなんだ」
アクランド伯爵が対面に座るキャルムの手を掴み懇願してくるのを、キャルムはどこか遠いところを眺めているようにぼんやりと眺めてしまう。
こうなることは簡単に予想できたではないか。だから、無視しようと、そう決めていたはずだったのに。
「は、い……」
ノーラと同じアクランド伯爵の深い青色の瞳を見つめながら、キャルムは頷いていた。
「ノーラには私から誤解がないよう伝えておくから、安心してくれ。フィーを守るためだって言ったら大丈夫。あの子は優しいからね」
アクランド伯爵はノーラが優しいと分かっていてつけ込んでいるのかと、キャルムは心の中で軽蔑する。ノーラの優しさを利用しているアクランド伯爵を内心で見下していたのに、すぐに自分も同じようになると、この時のキャルムは思ってもいなかった。
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窓の外はすっかり暗くなっている。3人のお茶会を終え、アクランド伯爵家のタウンハウスから帰宅の途についていたキャルムは玄関前のホールでフィーネから呼び止められた。
別れの挨拶は応接室でちゃんとしたはずなのだが、フィーネは手に何かを持ち、小さく細い肩を上下に揺らし息をしている。ここまで走ってきたのだろう。
「これ、お近づきの印にどうぞ」
フィーネが差し出しているのは手のひらサイズの小さな絨毯。
「友達になった人に上げようと思って、最近織ってるの」
絨毯はフィーネの瞳を思わせる青色で、真ん中に真っ赤な丸と小さな緑の丸が描かれている。緑部分はアクランドグリーンの糸に間違いない。
我が国の平民が使う織物は、健康・長寿の意味があるザクロの柄が人気だと習った。これはそのザクロ柄なのだろうか。
「りんごだよ。私、りんごが大好きだから。でも、これだと本物のりんごより小さいから姫りんごになっちゃうね。……たくさん友達できたらいいなってたくさん作ってるのに、誰かに上げるのこれがはじめてなんだ」
そう言って小柄ゆえかキャルムを見上げ顔を傾けると、艶々の茶髪がさらりと流れる。
そこへパタパタと足音が聞こえ、フィーネ越しに確認すると、ピンク色の髪の侍女が慌てた様子でフィーネの遥か後ろからこちらへ向かって走って来ている。キャルムの目線の動きと足音でフィーネも彼女に気づいたようだ。
フィーネは後ろを振り向き、走ってくる侍女の方へ身体を向けてキャルムの右横へ並び立った。爽やかな甘さのある林檎の香りが漂ってくるがフィーネの香水だろう。
「実は侍女にはダメって言われて、ここまでこっそり来たの。これ、内緒にしてね。……明日からよろしく」
フィーネは侍女を見たままの体勢で顔を近づけキャルムの耳元へ囁くと同時に、小さな絨毯をキャルムの上着のポケットへ素早く入れると、侍女を引き連れて屋敷の奥へと去っていった。林檎の香水の残り香のせいか、フィーネが去って行った後もフィーネの髪がキャルムの右肩にかかり続けているような気がしてしまう。
無言と無反応を貫いていたというのに、勝手にポケットへ入れられてしまった小さな小さな絨毯。ポケットから取り出し見ると、キャルムの手のひらに収まるその小ささ。床に敷くにはもちろん、テーブルセンターどころかコースターにするにも小さすぎて、使用用途が見出せない。
我が国の特産物である織物を織れることは純粋に素晴らしいことだと感心する。ただ、明らかに高級な糸が使われているのにも関わらず、織り目は荒くざっくりと織られていることに違和感を持ってしまう。
貴族用の素材で、平民用の商品の織り方をしているからだろう。そのチグハグさは、貴族としても平民としても中途半端なフィーネそのもののようだと、キャルムは思った……。
その翌日からキャルムとフィーネは学園で一緒に過ごすようになる。
目を離すとすぐに令息に絡まれてしまうフィーネ。
同学年には第二王子がいる。第二王子の側近や婚約者となりえる高位貴族家、つまりは歴史の長い家は王家の出産に合わせ出産しているために同級生に多くいる。生贄の歴史を知っているであろう高位貴族の令息たちは、その殆どが第二王子の側近候補だった。
第二王子とその側近候補たちと縁を作ることはキャルムの元々の主な課題。幼い頃から交流している者たちではあるが、将来のために繋がりを強化しておく必要がある。
キャルムは彼らがフィーネに手を出さないようにと牽制しながら、フィーネを含めて親交を深めていった。
キャルム目線はここまで。
次の話からノーラ目線に戻ります。