私がピアノを弾かなければよかった
「待って!」
理世が電気の灯っていない階段を下っていると、後ろから二年の森田紗久乃が追いかけてくる。
一番気が弱そうに見えたのになあ、と理世は思った。
「血が出てるよ」
そう言って、ハンドタオルを差し出してくる。
「いえいえ、血が出てるんなら、人のハンカチは使えないです――って、自分のはバッグの中かな?」
「いいから使って」
紗久乃は構わず、理世の頬にタオルを押し当ててくる。
それでやっと、殴られたという実感が湧いてきた。
同時に、相手も傷つけたんだと気持ちが沈む。
「新しいの買って返します。血が綺麗に落ちるかわからないから」
「ううん、今日のお礼」
「お礼なんて……、里音さんが言った通りですよ。私は引っ掻き回しただけです」
受け取ったハンドタオルをうつむきながらいじる。
「私ね、さっきも言ったけど、中学の時に優穂ちゃんと吹奏楽部で一緒だったから、心配だったんだ。入部希望で来てくれた時はうれしかった」
「なんでこんなことになったんでしょうね?」
「淑子先生は公正な人だから、あと生徒にも厳しいし」
「公正だから厳しくなるのかも」
「そうかもね」
そう言って、紗久乃は笑う。
「実はね、あなたのことも知ってるの」
その一言で中学生時代のことを思い出して、息が詰まる。
「……不登校だったから?」
「ううん、あなたがまだ学校に来てた頃、って言ったら失礼だね」
「いいえ、事実ですから」
「私、あなたにあこがれてたの」
予想していなかった言葉に、ハンドタオルを撫でる指先が止まる。
「一年の時、合唱コンクールで伴奏してたでしょ、『大地讃頌』。ピアノが難しいからって二年の自由曲リストに載ってる曲だったのに、簡単にっていうか、一年生とは思えない迫力で、すごいなって」
「そんなことないです」
――私がピアノを弾かなければ良かった。
「ごめんね、あなたは私のことをほとんど知らないのに、私はあなたのこと、噂で色々と知ってる。ピアノのことで色々あったって。だけどね」
優穂と同じ優しさが聞こえる。
「これは勝手な解釈だから。私、はっきり言って、優穂ちゃんよりクラリネット上手くないの。暗譜も遅くて、みんなの足引っ張っちゃう。でもね、好きなら続けたらいいと思う」
ーーそんなに優しくされたら、一人で歩けなくなってしまう。
「好きなら、自分のために弾けばいいと思う。私はそうやって、今でもクラリネットを握ってる。私は幸せだから。クラ、やっててよかったって」
それじゃあと言って、いまだに光の消えない教室に紗久乃は戻っていく。
留海の泣き声はもう聞こえない。
里音の叫びも聞こえない。
――これで、よかったのかな?
「……ごめんなさい」
暗闇の中で呟きながら、階段を下っていく。




