過去:最高のハーモニー
一クラス、大体三十五人だとして単純計算すれば全校生徒は五百二十五人。
そのすべてが正確な音で唄えるわけではない。
上手く唄えない人もいれば、口パクで真面目に唄ってない人もいるはずだ。
口パクしている人の数が約半数だとしても二百人を超える合唱。
バラバラで当然だ。
それをまとめ上げるために、生徒会長がステージの上で指揮棒を振う。それに従い、生徒は口を開く。調子を合わせる。
なのにどこか歪。
集会の最後に歌う指揮者のない校歌斉唱のほうがまだマシに思える。
いっそのこと、校歌斉唱に変えてしまったほうがいいのでは? と思ってしまう。
全校生徒は指揮者に従う。
だが、ピアノがそれに従わないのだ。
普段、練習でピアノ伴奏に合わせて唄っていれば、そちらに合わせてしまいそうになる。
だけど、生徒会長の指揮棒に合わせて唄う生徒もいる。
生徒会長も、どちらかといえば、ピアノに振り回されているように見えなくもない。
出だしはそろっているのに、徐々にピアノが先行し始める。独走を始めるのだ。
指揮者は慌てて、ピアノを追いかける。
ピアノはステージの上ではなく、フロアに置かれている。体育館入口から見て正面にステージがあり、ピアノは右側に置かれている。
指揮者と伴奏者の目が合うように配置されているが、果たして目配せをしているのだろうか?
体育館を使ったクラス合唱の練習の時に淑子先生は言っていた。
みんなはステージの上、ピアノはステージ下にあるから、みんなの耳に届くのに、ほんの少しだけ差が生じる。
距離にして数メートルなのに、視覚情報と音速にそんなに差が出るのだろうか? と思った。
それは、現にこの場で起きている。
バスケットコート二面分の体育館。ピアノから一番遠い人が伴奏の音に従っていたら、ピアノの真横にいる生徒とゼロコンマでも音のズレが生じるはず。
その点は、吸音材を使用していない体育館の硬い壁や床のおかげで良く反響し、ズレを隠してくれる。
だが、本番の文化会館のホールでそれは如実に現れるはずだ。
合唱コンクールを見に来るのはほとんどが父兄だと聞いた。
だから、特別聞かせるために頑張ろう、という生徒は少ない。
クラス合唱にしたって、良い評価を得るため、クラスのため、自分たちのために唄う生徒が圧倒的に多いはずだ。
だけど、合唱コンクール開幕の全体合唱がこんなにチグハグではやる気がそがれる。
体育館には、いつもの集会の通り、入口から見て、左から三年生、二年生、一年生と並んでいる。
各学年別に唄っていき、最後に全員でもう一度唄う。
ピアノの余韻だけが残る。
ステージの上に立った生徒会長の顔は不満を通り越して怒りさえうかがえる。
「十分だけ休憩をとります、トイレに行きたい生徒は今のうちに行ってください」
マイクを使った淑子先生の声が響く。
パラパラと列から抜けていく生徒や、疲れてその場にしゃがむ生徒たち。
一気にその場の空気が緩んだ。
私は歌っているあいだ、ずっと「どうしたのだろう?」と考えていた。
いつもの里音さんらしくない。
最近、一生が言う通りスランプっぽいような気はしていたが。
このような広い場での演奏に慣れていないのだろうか?
それともピアノが合わないとか?
ピアニストは自分のピアノをコンクール会場に持ち込むことができないので、「いつも練習で使ってるピアノと違う」――からうまく弾けないなんて泣き言は言わない。
ピアノ一つ一つに個性があり、ピアニスト一人一人にも個性はあるが、どんなピアノでも弾きこなしてこそのプロ。
だけど、それをコンクールを目指すピアニスト以外に求めるのは失礼だろうか?
クラスは身長順に一列に並ばされていて、中でも身長の高いほうに含まれる私の位置からでは、ピアノの開かれた大屋根しか見えない。
だが、生徒会長の苛立った声が聞こえる。
きっと、ピアノ伴奏を責めているんだろう。
それに対して、淑子先生が言葉を挟んでいるような様子もうかがえない。
まるで自分が怒られているような不安が襲ってくる。
自分も少し座ろうと思った時だ。
「二年A組、深澤! ピアノの前まで来なさい」
マイクを使わない淑子先生の声が体育館に響き渡る。
一瞬、生徒たちの談笑が途絶える。――が、再び、それは再開する。
文化祭まであと五日、午後から実際に会場に移動して練習するという時に、伴奏者を変えるのだろうか? それなら淑子先生が弾けばいいのに、と思った。
列の後方をピアノのある体育館右側に向かって走る足音が聞こえる。
思わず振り返る。
駆け足は二人分だった。
そのうちの一人の後姿には見覚えがあった。
黒くてサラサラの長い髪。
――優穂さん?
先ほどとはうって変って、なにやら言い争う声が聞こえる。
そろそろ、十分経つはずだ。
再び誰かが駆ける音。振り返れば、里音さんだった。
彼女は時間に合わせて戻ってくる生徒たちとは逆に、体育館を出ていく。
「練習を再開します! みんな列に戻りなさい」
生徒指導部の先生の声に、みんな慌ただしく列に戻り、座っていた生徒も立ち上がる。
里音さんを追いかけようかと思ったけれど、今この場で退場するのは目立つと思い、はばかられた。
「次の一回で体育館での練習を最後にします」
マイクを通して淑子先生が言う。
生徒会長が再びステージの上にあがる。
やはり、その表情には不安があるが、先ほどまでの怒りや苛立ちのようなものは見られない。
伴奏者が交代して嬉しいのだろうか。
会長は少しだけ足を広げ、白い指揮棒を持った右手と、何も持たない左手を掲げる。
これから演奏を始めるという合図。
里音さんよりうまい人なんて――
タクトが振り落される。
和音から前奏が始まる。
音符は少ないのに、どこまでも広がっていきそうな音色。
指先に込められた感情が、一つの音で七色を描き出すような、そんな感情移入。
思わず、唄うのを忘れてしまいそうになるが、自然と、ピアノの音に背中を押されるように声が出る。
プロではない生徒会長の指揮棒を振う腕に手を添え、導くような音の信頼性。
だけど、決して目立とうとしているのではない。
生徒たちの歌声に寄り添うように、励ますように流れる音。
今までで最高のハーモニーが体育館に満ちる。
間奏部分は本人の好みだろう。低音を重視しつつ、高音部は、ひらひらと花びらのようにきらめく。二番目の手前のリタルダンドが少し長いが、指揮者とのアイコンタクトがしっかりしているのだろう。まったくずれない。
指揮者の力不足な部分を伴奏で補い、全校生徒の歌声を持ち上げる。
伴奏だけで、ピアノ、クレッシェンド、フォルテの指示を出している。
淑子先生と同じような弾き方だけど、強要なんて少しもない。
まるで自然。当たり前だと、特別なことなんて何もない三年間の高校生活だけど、それを五分間に凝縮するとこんなにも熱量があるんだよと、教えてくれる。
最後の一音、ピアニッシモで空気に溶け込ませた時、寒気が全身を襲う。
それは周りも同じだったようで、みんななしゃぎそうになるのを、必死でこらえている。
やがて、生徒会長も満足そうな微笑みを浮かべて降壇する。




