過去:凡人は何も求められてないから自由だ
次の日の放課後、また音楽室に向かった。
ピアノの音が聞こえたから。
里音さんは私の顔を確認するなり微笑んだ。
歩調を緩めず、ピアノに歩み寄る。
「すみません、練習の邪魔、しちゃって……」
「大丈夫だよ。よかったら歌っていく?」
彼女の言葉にゆっくり首を横に振る。「いいえ、……あの、全校合唱の伴奏、しないんですか?」
「え?」
「昨日、淑子先生が里音さんに頼みたいけど……って」
里音さんは何か身に覚えがあるのか、少し眉を潜めるが、すぐに笑顔に戻る。
「そのことなら、さっき先生と話して、ちゃんとやるって決めたから」
「よかった、里音さんのピアノで唄えて」
素直にうれしかった。
普段はクラス、もしくは学年練習だけで、その時のピアノ伴奏は淑子先生が担当した。先生も下手ではない。
ピアノを弾きながらでも指示を飛ばすくらい、ピアノで合唱全体を引っ張るくらい上手い。
でもたぶんそれは経験がなせる業だ。
譜面台の楽譜を見つめながら、唐突に里音さんが聞いてくる。
「……そんなに好き? 私のピアノ」
「……はい」
いまさらながら、恥ずかしくて、小さな声しか出なくて、聞こえたかどうかわからないが、話しを続ける。「実は、中学までは東京でピアノをやっていたんです。将来はピアニストにって思った時期もあったんですけど、……両親が離婚することになって、今母方の実家に預けられている状態なんです」
まだ会って二回目なのに、スラスラと言葉が出てくる。
「こっちの学校に入学して、新入生としての不安もあったんですけど、両親がどうなって、自分もどうなるか、ずっと不安だったんです。今でも、たまに不安に襲われることがあります。そんなとき、里音さんのユモレスクが聞こえてきて、……なんて言えばいいのかな、恥ずかしいんですけど、私と、同じような不安を音色に感じて、一人じゃないんだなって」
顔が熱い。
きっと、自分の顔は真っ赤だ。
一呼吸置いて、里音さんが口を開く。
「色々、大変なんだね」
「すみません、人の家のゴタゴタ話なんて聞きたくないですよね、」
ううん、と言って首が振られると、綺麗に内側に巻かれたボブの毛先がプルンと震える。
「色々な家は、あるよ。どこにだって」
「練習中にすみませんでした。邪魔しちゃって」
「気にしないで」
「それじゃ私、部活があるんで」
そう言って、お辞儀して音楽室を出る。
詳しく話す暇もなく、離れ離れになってしまった向こうの中学生の友人たち。
始めのうちは文通で、「不安」としか書けなかった。
でも今なら楽しいこと、たくさん書ける。
だけど、みんな高校で新しい友達を作って、それぞれのスクールライフを満喫しているのだろう。
手紙の返事が届かなくなって、メールに対して何日も返信がなくても、自分も今が楽しいからそれでいいと思う。
忘れられないのは、いつだって嫌な思い出だ。
クラスの出し物については、あとは前日に教室内の内装と当日の販売だけになった。
始めの時点で力を入れすぎたようだ。
その分、文化部の子たちは早く部室に行って、遅くまで準備ができると喜んでいた。
十月を過ぎた水泳部は、土日はスポーツセンターの温水プールで練習。平日は校舎の周りをランニングした後に、一階廊下で腹筋や背筋などの筋肉トレーニングにいそしんでいる。これが春まで続くというのだから、西日本の選手のほうが泳ぐのが速いというのは頷ける。
沖縄は三月に海開きだとニュースで見るが、その頃、北東北も北海道も雪の中だ。
逆に、雪原を走って脚力を鍛えるという北国ならではのトレーニングも珍しくはない。
心に引っかかるのは、文化祭まで一週間切っているというのに、里音さんの調子がよくないということだ。
正確には彼女の奏でるピアノの音。
校舎の周りを走っているのだから、ピアノの音が聞こえる位置を通り過ぎることもある。
だが、前のように心が動かされるような、そんな音が聞こえてこないのだ。
「君、そんなに気になるなら応援しに行って来れば?」
一緒に走っている一生が茶化してくる。
「応援で実力が戻ってくるならいいけどね」
「ピアノってそんなに複雑なの?」
「複雑っていうか、誰にでもスランプってあることだから」
スランプから抜け出す方法は人それぞれ。他人から手を差し伸べられてそこから脱することができる人もいるみたいだけれど、結局は自分の心の持ちようだと思う。
自分の心はごまかしがきかないから。
「スランプかぁ、私ならもうどうでもいいやって投げ出しちゃう」
「一生でもスランプ、あるんだ」
「あのねー、私は中学から水泳部続けてるけど、鳴かず飛ばずで、ぶっちゃけヤケクソで続けてるようなものなんだからね」
初めて聞いた。
小学生の頃から泳ぐのが好きで、中学で水泳部に入って、そこでちゃんとした泳法を学んだという。
だから、彼女が泳ぎ続けているのは単に「好きだから」が原動力だと思っていた。
「知らなかった」
「言ってないからね。知ってたらびっくりだよ」
突然、一生は立ち止まる。
喋りながら走っていてバテたのかと思って振り返ると、彼女は両手を腰に当て、脚を少し開いて仁王立ちしている。
「世の中には二種類の人間がいるんだよ」
顔は笑ってるのに、声は真面目だ。
「一つは努力が実るヤツ、もう一つは努力が実らないヤツだ。たぶん私は実らない人間だ」
「まだ一年だし、来年はわからないじゃん」
「そういう夢はみない。夢を見る人って、たいがい努力してないヤツのセリフだから」
そう言った瞬間、街頭が灯って、一生の顔を照らす。
今、神が降りてきた。
「余計な夢は見ない。自分には向いてない。それで結構。向いてなくてもさ、楽しんだもの勝ちなんだよ。やり遂げたヤツが一等賞なんだよ」
なんでこの娘は強いんだろうって思った。主にメンタル的な部分でだ。
それは高校一年生にしてアイデンティティを築けているからだ。私にはないもの。だから街頭の明かり関係なく、眩しいんだ。
「すごい人はできて当然なんだよ。私にできないことが平気で出来ちゃうんだよ。私は自分に与えられた畑で、自分が美味い! って思える野菜を作れればいいの。それがいつできるかわからないから、挑戦し続ける。平民にできることって言ったらそれだけだよ」
そう言って、一生は再び走り出す。
まさに灯台下暗し。
近くにこんなパワーワードで殴ってくる友人がいるとは――。
一生に負けてられないと私も走り出す。
私は私でいい。
天才じゃないから何も求められていない。
それは口にすれば悲しい言葉だけど。
だけど、こんなにも自由だ。




