過去:take your marks
何もかもが初めてだった。
一緒の種目に出る山本先輩と二年の先輩と三人で召集所に向かう。
選手控室の前で、学校名と名前を告げる。
係員が名簿にチェック印を書き込み、ゲートを通される。
選手控室の中は暖房が効いていた。
競泳選手用のジャージは速乾性素材で出来ているが、中は意外にも起毛で体温が下がらないような布が使われている。
中には、冬用の表面がナイロン製のロングコートを着ている選手もいるが、ちゃんと水着メーカーのロゴが刺しゅうされているので、競泳用なのだろう。
自分の順番を待っている間、不安で仕方がなかった。
スタートに失敗したらどうしよう? ゴーグルが外れたらどうしよう? 途中で力尽きたらどうしよう? やっぱり、一番遅かったらどうしようという不安もあった。
周りの選手はストレッチしたり、音楽を聴いてるのかイヤホンをしたり、山本先輩もそうだが、とても同じ女子高生には見えない。
先輩たちは、知り合いの選手なのだろう、自己ベストタイムなどを言い合ったり、和んだ雰囲気だ。
私のように、見よう見まねでストレッチをしたり、黙って椅子に座って自分の番を待っているのは同じ一年生のはず。そう思わなければ、胃に穴が開きそうで仕方がなかった。
やがて、女子百メートル平泳ぎ競技開始のアナウンスが流れ、本当に口から心臓が出てきそうだと感じた。
こんなことなら、一組目でさっさと終わらせたかったと思う。
そもそも、さっさと終わらせられるほど速く泳げるはずがない。
自分の番が近づき、自分の後の二年の先輩と山本先輩に見送られ、コース順にならんで、選手控室を出る。
涼しい風が、少し緊張を癒してくれる。
六コースは選手控室からすぐで、一コースずつに配置された審判に礼をして、ジャージを脱ぐ。
これまた見よう見まね。
周りの選手が、椅子の脇に置かれたバケツの水で胸――心臓に水をかけて、水温にびっくりしないように、心臓を落ち着かせる。
――飛び込んだらあとは泳いでターンして、戻ってくるだけ。
セイルを使い、肩から水をかけ、全身を濡らしていく。
やがて、一コースから名前が呼ばれる。
一コースの選手はまだ自分のコースに付いたばかりで、今、ジャージを脱ぎ始めたところだ。
逆に、隣の七コースの選手は用意された一人がけのプラスチックの椅子に座り、太ももを拳で叩くマッサージをしていた。
それに倣い、一度席について、ゴーグルをセットする。
顔に跡が残るくらいきつくしたゴム紐、大丈夫。練習の時だって外れなかったし。
名前を呼ばれ、立ち上がってプールに向かって礼をする。
同時に、西側観客席から名前を呼ばれる。
チームのみんなだ。
でも、そちらを見る余裕はない。
ホイッスルがなって、スタート台の横に立つ。
次に長いホイッスル――位置につけの合図。
震える足でスタート台の上に立つ。
一歩間違えばプールに落ちて即失格。
ざらざらしたスタート台の表面。
右足をその先に引っ掛ける。右足は少し弾いて、後ろのスタート判定装置に足を置く。
足はそのまま、上体を前に倒し、自分の足元を見る。
声援が止まる。
――take your marks
スピーカーから発せられる音声を合図にスタート台をしっかり手でつかむ。
スタート合図までの数秒、ここで少しでも体が動けばやり直し。
短いスタート音が鳴る。
体を後ろに引いて膝のバネを使って前へ飛び込む。
もう水の音しかしない。
前しか見えない。前しか見ない。
潜水からの浮上。
思いっきり息を吸い、まるで拝むように合わせた両手を斜め上に付き出し、再び水中へ。
それはイルカが一瞬だけ水面に体を出すような。
頭のてっぺんから再び水中へもぐる。
両手で水をつかんで左右に裂く。
百メートルはあっという間。ストロークのテンポを緩めてはいけない。
水を裂いた手を、脇で素早く引き寄せて再び手を合わせる。
足の裏全体を使って、水を押す。
前に進むように。
自分で水を切り裂き、水を蹴って前へ、前へ――
水の中を泳いでいるのに、こんなにも水であふれているのに喉が痛い。
酸欠で苦しい。
だけど泳ぐのは止めない。
泳ぎ切る。
順位なんて関係ない。
タイムも関係ない。
こんなに苦しくても、遅くても、フォームが崩れても――
自分だけには負けない。
泳ぎ切ったら私は、今の私に勝てる。




