現代:手の中の卵だったあの頃
午後三時過ぎの中央線はかろうじて空いていた。
これが、四時近くなると帰宅の中高生や社会人たちでごった返すのだろうなと、成田は窓の外を見ながら思った。
九月はもう夏ということでいいだろう。気温は下がる気配がない。
車内の冷房も強いままだ。
新宿から乗ってきた目の前の老人が、扇子で仰ぎながら、ハンカチで汗を拭き、扉が閉まり、電車が走り出すと同時にため息をつく。
乗ったのは下り電車。新宿を過ぎると、途端に懐かしい風景が現れる。
目新しい背の高い建物といったらマンションばかり。駅前も、店が入れ替わった程度で、建物自体は残っている。
吉祥寺の手前、荻窪で電車を降りる。
南地下改札を抜け、そこがデパートの入り口のすぐ隣だと気づき、おみやげはここで買っても良かったかな、少し後悔した。
車内が混み合っていて、お菓子を入れた紙袋がもみくちゃにされるようなことがあったらこちらで買った方がよかったが、まあいい。
階段を登ると、右手にはすぐに商店街。
商店街が残っていたことは少しうれしかった。見れば、昔からのお店はほとんど残ってはいないようだが。
ここに通っていたのは十年以上前だ。
それくらいの年月が経てば、住む人も変わり、求められる店も変わってくるだろう。
綺麗に整備された歩道を阿佐ヶ谷方面に向かう。
住宅街の方に進路を変えれば、途端に懐かしさがこみあげてくる。
まだまだ古い家が残っている。
変わったのは駅前の辺りで、住宅街は特に変わっていないようだ。
事前にアポを取った時、「うちは建て替えてないし、周りもそのままだから、すぐにわかるわ」と言われていたが、本当にその通りだった。
足は、迷うことなく目的地を目指す。
変わったのは自分の歩く速度、歩幅くらいだろう。
十畳程度の防音室の中央に家庭用のグランドピアノが置かれている。
隅には、レッスン待ちの生徒用に練習用電子ピアノ。こちらは新しいものに変えたらしい。
防音室の扉の隅に張られたステッカーは大手楽器メーカーの名前と、そこで出しているユニット式防音室の商品ロゴ。
多少の改築は施したらしい。
楽器の他に、滅多に見なくなったCDプレイヤー付のラジカセ。
それが乗っているのは、日に焼けた楽譜用の棚。
小さい子供向けにぬいぐるみやパズルの入ったプラスチックの籠が置かれている。
中学生だろうか、学ランに身を包んだ男の子が演奏している。曲はチェルニー。ピアノを学ぶ上で、避けては通れない作曲家。
「また手が平らになって来てる!」
彼の後ろに立った中年の女性が声を上げる。
一瞬、曲がストップするが、すぐに演奏が再開される。
手の形を変えたのだろう。強い音が室内に響く。
――手の中に卵が入ってるとイメージして、それがつぶれないようにピアノを弾く。
当時、私はそのように目の前の彼女から教わった。今も、変わらず、そうやってハイフィンガー奏法を教えているのだろう。
手が平らな時より、指を高く持ち上げて強い音を出すことができる。
だが、指を持ち上げることが手首を持ち上げるクセにつながって、手首を使って弾くようになる可能性が出てくる。これは腱鞘炎につながる。
今はいいが、そのうちショパンや、近代、現代作曲家の曲を弾く場面に遭遇すれば、ハイフィンガーフォームを変えなければならない、なんて、目の前の彼女に言ったら怒られるだろうな。
「前言ったところが直ってません。あと、爪もちゃんと切ってくること。今日のレッスンはここまで」
その言葉で、男の子がふっとため息をついたような気がして、思わず笑みがこぼれる。
昔、私が言われたこと、そのまんまだったからだ。
彼は譜面台に乗せた楽譜を両手に抱えると、「ありがとうございました」と言って、私の隣の椅子に置かれた学校指定のリュックに楽譜を仕舞い、「さようなら」と礼儀正しく礼をして帰っていった。
先生との私語のやり取りがない。
申し訳ないが、彼はそろそろこのピアノ教室を辞めそうだ。
「やる気がないならなんですぐ辞めないのかしら?」
彼女は立ったまま、スケジュール帳にペンを走らせる。
「生徒が少なくなったら、先生だって生活が厳しくなるんじゃないんですか?」
「言うようになったじゃない。――何年振りかしら?」
ピアノ教師――中西潤子がこちらに向かってくるのを見て、成田も立ち上がり、握手する。
関節の太い指。絵本で見る魔女のような手だ。
関節が目立つようになるのは、ピアニストとして職業病のようなものだろう。
顔の皺は増えたが、髪は赤く染め、軽くパーマをあてた髪を、白いシュシュでサイドで結っている辺りは若々しい。
細かい花柄の青いロングワンピースは年相応な気がするが、上に羽織ったサマーニットのカーディガンは若者が着るようなデザインだ。
この分だと、声が出る限りはピアノ教師を辞めないだろう。
「十七年ぶりになります」
「もうそんなに経つのね。でもあなたは全然変わらない」
そう言って中西は微笑む。まるで、孫か息子に向けるような表情だ。
「先生も変わりませんよ」
「まあ、お世辞も覚えて。私はもうおばあちゃんよ。孫もいるんだから」
「そう言えば、息子さんは今でも音楽を続けているんですか?」
通っていた当時、私より年下だったが、自分で作曲した曲を発表会で弾いてたはずだが。
「全然」
言いながら、彼女は首と手、両方振って見せる。
「中学に通い出したらだめね。外の世界が楽しくてしょうがないって感じ。高校まではピアノは続けたけれど、大学も工学部。息子のお嫁さんのほうがまだ望みがあるわ」
まさかお嫁さんをピアニストにするとか、さすがにないか。
「すみません、話しが弾んでしまって。――これ、つまらないものですが」
そう言って菓子の入った袋を渡す。
孫がいると聞いていたらお祝いに何か買ってきたんだが、今は食物アレルギーとか、色々大変だからなあ。
「ありがとう! そうね、暑い中せっかく来てくれたのに、飲み物も出さないで、ごめんなさいね」
「いいえ、クーラーがあるだけでもありがたいですよ」
「ピアノは全身運動だからね」
中西の言葉に、クーラーのなかった当時の自宅の練習室、汗だくで練習してた中学生時代を思い出した。




