50 一時休戦
「――むぎゅう。と、取れましたか?」
指摘すると慌てて袖で頬を拭っていたが結局落ちなかったために俺が取ってあげることにした。
シリアスな場面でなんとも格好のつかない風景だったのがすごく印象的だ。思い出すだけで笑ってしまいそうになる。
「うん、取れた……けど」
パンくずを取って綺麗になったシエルの頬をむにむにと弄ぶ。
「はにゃー、なにを、するですかキョーマぁ」
「ああ、ごめんごめん。触り心地がよくて、つい」
まるでマシュマロのような優しい感触で食べてしまいたくなるな。
名残惜しいがいつまでも触っていると本気で怒られそうなのでやめておくか。
「ついじゃないですよ、まったく。えりゃ、お返しです」
むにーと、頬を掴まれ伸ばされる。うん、痛くはないけどくすぐったいなこれ。
「ふへへ、面白い顔にしてやるですー」
ぐにぐにと色んな方向へ頬を引っ張られ形を変える顔にシエルだけでなくアリアまで笑いそうになっているな。良いんだぞ? 笑ってくれても。そんなプルプルしながら必死に耐える必要はないさ。むしろ無表情でその仕草をされると怖い、怒っているみたいで。あれ、もしかして怒ってるの? 大丈夫だよね? いきなりぶっ飛ばされたりしない!? よくわかんないけどとりあえず謝っておくね、ごめんなさーーーいッ!!
「……奏はほんとに面白いなぁ」
ぽつりと。
内心葛藤をしていた俺を見てカズキがそんなことを漏らす。シエルは今や俺の頬をこねくり回すのに忙しくてカズキのことなんて忘れているみたいだ。このまま有耶無耶にしてくれるとありがたいのだが。
「ふあ? ほうふぃふあ、ほうふぃふぇほほひ」
「ここに来た理由か? そりゃお前…………どうしてだっけ。あれー」
口が閉じられなくて上手く喋れなかったのに、やはりというべきかカズキは察してくれた。
しかし、その理由が頭からすっぽ抜けているらしく首を傾げて俺に疑問の目を向けてくる。え、そんな顔されたってわかるわけないだろ? お前と違って俺は心を読めないし、そもそも本人が忘れてるんだからどうしようもない。
「なんてな。つーか、奏こそ忘れちまったのか? 今日が何の日かを」
今日が何の日かって? そんなの――
「あ」
「はぁ、やっぱり忘れてたのか。どうりでオレがここに来ていてものん気に嫁候補と遊んでるわけだ。気付いてないかもしれんから言っておくけどさ、端末にメッセージ送ってあるぞ。昨日の夜には届いてるはずだ」
ふっ、残念ながら確認していない! 忙しかったからなぁ昨日。
「……っ、ふぅ。ごめん、読んでない」
何故か一瞬手を止めたシエルを引き剥がし、遊びはここまでにしようと意思表示する。
「そっかそっか。忙しかったのならしょうがない。奏にも生活ってものがあるからな、強制はできないさ。そんで、今日は来れそうなのか? みんな奏に会えるの楽しみにしてるぞ」
強制できないって……その誘い文句は断れないだろうよカズキさん。
「行くよ。少し遅れるかもだけど、午後にはちゃんとね」
「りょーかい。それじゃ、委員長にはそう伝えておくな。一応確認するけど、そこの二人は連れて来るのか?」
来るなって言ってもついてきそうではあるな。たぶん予定もないだろうし、面白そうだから連れて行くと思う。
「ふむふむ。たしかに」
「まだ何も言ってないから。先読みするなってば」
「あはは、すまんすまん。とにかく、昼からってのは理解したんで先に行ってるなー」
それだけ言うとカズキは慌てて走り出して行ってしまった。まあ、もうすぐ始業時間だからな。遅刻という概念はないけど、朝から集まるのが本来の予定だったのだろう。俺も支度をしたら行かなきゃならんなぁ。
「きょーま、きょーま。結局何の話だったの? 私たちを連れて行くってことは、何処かに出かける用事でもあったの? もしかして、私との訓練できょーまの私事を邪魔しちゃった? ねぇ、答えてよきょーま!」
そして、これである。
ガクガク揺らすなよ、まだ朝飯消化してないんだから吐くぞ。
「シエル、帰ったらアリアの調整頼む」
「はい。ちょっとパラメータをいじり過ぎましたね……感情制御が上手くいってないみたいです。顔が無表情なのでわかり難いですけど」
喜怒哀楽が内部で表現されていても顔に出ないというのは、もはやアリアの個性だということなんだろう。表情筋が硬いのかもしれん――いや、シエルと同じくらいほっぺは柔らかいけどね。弾力性はアリアのがちょっとだけ上かな。なんとも甲乙付けがたい。
と。まぁ、そういうこともあって帰宅してからはアリアの言語回路の調整を行うこととなったわけである。
シエル曰く、調整自体はさほど難しいものでもないらしい。専用のケーブルを額に貼り付け、首にも同じ物を巻いてデバイスで信号を送受信しつつ画面に数字を入力しながら設定するだけだと言っていた。
数値は一から百の間で入れられるんだが、項目が多すぎて俺には到底理解できない。どこかの数字を増やすと、どこかの数字が減ったり、もしくは増えたり……時々エラーになったり。
「って、おいおい大丈夫なのかシエル?」
なんかアリアの口の端から唾液が垂れているんだが。よく見ると体も小刻みにプルプルと震えているような……もしかして、痙攣してるのかこれ。
「はい? ああ、感度パラメータが振り切れてますね」
感度パラメータ? なんだそれ。
「んく……っ。きょーま、見ちゃ、だめぇ。あっ、うん……ふぅ」
「わわわ!? すみませんアリア、すぐに戻しますね!」
やばいな。だんだんと人に見せられない状態になってきたぞ。でも俺は見ちゃうけどね! 紅潮した頬の艶やかさや涙で潤んだ瞳の麗しさに目が離せない。それに時折見せる妖艶な笑みが俺の心を刺激してやまない。普段は見ることのできない貴重な表情を記憶の一ページに永久保存しておこうと思う。
「…………びっくり、した」
それはこちらの台詞である。
壊れないかと心配したぞ最後の方。え、最初から心配しろって? ははは、ごめんなさい。
「いやー、ちょっと予想外でしたねぇ。まさか、こんなふうになるなんて」
ちょっとなんだ。いやあまぁ責めるつもりはないけどさ、もう少し反省してくれよ。危うく大惨事になるところだったんだぞ。
「アリア、上向いてくれ。そう……よし、綺麗になったぞ」
先ほどのアクシデントにより体液で汚れてしまったアリアの顔や体を清潔な布で拭ってやる。
途中、くすぐったそうに目を細める彼女はまるで猫のようであった。リンネが普段アリアのことを黒猫と呼ぶのにも納得かもしれない。そういえばリンネはどうしているのだろう? 沙耶の姿も見えないし、二人で対戦型ゲームでもしているのかな。あいつら妙に仲が良いというか、波長が合うというか……暗黒面に堕ちないでくれるとよいのだが。俺も一時期ダークサイドの魅力に取り憑かれて周りの人々に迷惑をかけた過去があるのだ。忘れたい黒歴史というやつだな。困ったことにその影響が沙耶にも出ている可能性は否めない。時々だが前世の記憶がーとかこれは運命によって定まっている確定事項とかなんとか言ってるし。痛い、本当に痛い。でも、自分もそうだったので強くは注意できないという……はぁ。
「ありがとう、きょーま。それで、綺麗にしてくれたのはいいんだけど、なんでまだ触ってるのかな。嫌じゃないんだけど、今は控えてくれると嬉しいかも。さっきの余韻が残ってて……ふにゃあ」
おっと、考え事をしていたらいつの間にかアリアの首筋に触れていたらしい。ここか、ここがええのんか? わしゃわしゃわしゃー!
「はぅ、んっ、ああッ! やぁ、らめ、きょーまぁ」
「なにやってるんですかキョーマは……まったく。片付けの邪魔ですよ、どいてください」
「あ、うん」
シエルの言葉で現実に引き戻される。調子に乗りすぎてしまったようだ、すまんアリア。
「んく……あれ、もうやめちゃうの?」
「え?」
「はい?」
「!…………ごめん、なさい」
そこで謝られるとこっちが困るんだけどね。悪いのは俺なんだけどなぁ。先に言われちゃうと、どう反応していいか迷う。
「その、」
この場を切り抜けるにはどうするのが得策なのか。答えの出ぬまま口を開きかけた時、どこからともなく電子音のような物が聴こえてきた。
ピローン、ズババッ、ジャキーーーン!!
「いよっしゃぁぁああ! フロアボス倒したッスよ妹ちゃん!!」
「ふっ、さすがは我が魂の相棒……ナイスアシストです」
イエーイと携帯ゲーム機を片手に持ちつつハイタッチをする沙耶とリンネを見てホッと安堵する。
今回は空気を読んでくれたみたいだな。マジで助かった。偶然通りかかっただけだろうけど、これぞ運命! あっいけね、再発してないよな? 大丈夫、だいじょうぶ……ほら、収まった。
「マスター、あとでプリン一個ッスよ」
パチリとウインクをしながら小声で要求を伝えてくるリンネ。なるほど、偶然ではなく必然! げほごほ……ゲームをしながらも聞き耳を立てていたみたいだな。どうりでタイミングが良いわけだ。うん、プリン一個ね、りょーかい。
近頃うちでの通貨代わりにされている、ちょっとお高いプリンを後日献上する約束をする。ちょうど今日は出かけるし、帰りにでも買ってこようか。もちろんアリアの分も忘れずにね。
「息子、そろそろ時間。支度は済んで――――ないみたいだから、用意しておいた」
と、危機を脱してのんびりしていた俺の元へ母さんがトートバッグを二つ抱えてやってきた。
「これは?」
「ん。お昼ごはん…………に使う食材」
一瞬、母さんが料理を!? とか思っただろ。俺もだ。しかし、作れるわけがなかった。いや、調理自体はできるんだけど、味がその、ね? 俺も母さんもシエルが作る料理の味を知ってしまったからなぁ。沙耶はまだ諦めずに頑張っているみたいだけど、遠く及ばない出来であると嘆いていた。
「向こうでシエルに作ってもらうと、いい。みんなで、食べて」
「おっけ。片方は食べ物だとして、もう一個は何が入ってるんだ?」
トートバッグの容量を考えればわざわざ分ける必要性を感じない。混ざっては困る物でも入っているのだろうか。
「医薬品類。あと、服とか色々」
それはたしかに分けたほうがいいわな。つまり、これはそのまま彼らに渡せば良いってことかね。
「そっか。ありがとうな母さん。気が利いて助かるよ」
「ふふ。息子の世話するの、母親なのだから当然」
それを当然と思えるのがすごいんだよ。だって、俺の本当の母親は――
「キョーマ、結局何処に出かけるのですか? なんだか話がどんどん進んでいって置いてけぼりにされた気分なのですけれど」
今は考えるのはよそう。思い出したところで過去が変わるわけでもないしな。
「ありゃ、マスターたちどっか出かけるんスか。んー、それじゃ私は今回はパスってことで! 妹ちゃん、続きしーましょ」
「ついに封印されしこの右手を解き放つ時が……あ、そういうわけで私たちは行きませんので。あの馬鹿に会いたくないというのが本音ですが、言わないでおきます。次は新しい装備を作るための素材集めですねーリンネさーん」
もう駄目だこの妹、早くなんとかしないと。二次被害だけは勘弁してくれよな。それに本音言ってるし。会いたくないほど嫌われてるとは不憫なやつだ。まあ、無理に仲良くする必要もないと思うけどね。
沙耶は軽く手を振ってリンネと一緒に自分の部屋へと行ってしまった。ゲームに熱中するのはいいけど程々にな。
「それじゃ、あとは任せる」
母さんもリビングの方へと歩いて行く。テレビでも見ながらのんびりするのだろう。今日はお気に入りのドラマの再放送日だったはずだ。母さん曰く、素晴らしい物は何度観ても素晴らしいのだとかなんとか。
「あいよー。さて、なんの話だっけ」
「目的地の説明をシエルは要求している。ちなみに散々無視されたのでちょっと拗ねてるよ」
「べ、別に拗ねてませんよ!? 何を根拠にそんなこと言うのですかアリアは!」
「慌てるのがその証拠。……あぁ、うん。だいぶ良い感じだね、この調整。話したいことだけ選択してちゃんと言葉にできている気がする」
アリアは自分の言葉を確かめるように確認する。早朝に比べると幾分か落ち着いて話せるようになったみたいだな。調整中のアクシデントは忘れることにしたらしい。その方が俺もいいと思う。
「むぅ。言語回路の調整はビシッと決まりましたけど、おかげで大幅なパワーダウンをしていることを忘れないようにしてくださいね? アリアに使われているシステムそのものが煩雑過ぎてバランス的にはこれが限度なんですから。くれぐれも今までと同じような無茶はしないように。耐久力も落ちていますしね」
言葉の代わりに失った物は大きい。だが、それは彼女自身が望んだことだ。言われなくても理解しているだろうさ。
「わかった、善処するよシエル。ありがとうね、私のわがままを聞いてくれて」
「あー、うー。わ、わかれば良いのです」
アリアは兵器として生きてきた過去がある。だからこそこうして普通を求め、試行錯誤をしているのだ。俺は彼女がどう変わろうとも受け入れるつもりである。望むままに、自身の思い描く道へと進んで欲しい。
「ふふ。でも、まだまだきょーまには負けないからね?」
「どうだろうな。俺も日々強くなっているわけでして…………って、ちょっとアリアさん? そんなすぐ戦闘態勢をとられても困るんですが」
え、いきなり戦うのか? ここ家の中なんだけど!? 何か壊したら母さんにちょー怒られるんだけど!
「避けられぬ戦いはいつも唐突にやってくる。すぐに対応できるよう普段から心がけていないと駄目だ。そう教えたはずだよねきょーま。忘れちゃった?」
忘れてはいない。しかし、場所が悪い。
「建物の中に居る時は常に逃走経路の確保を怠るな……だったか」
「うん。いいね、さすが私のマスター。飲み込みが早くて嬉しいよ。でも、今回は冗談なの。ちょっと悪ふざけが過ぎたかな? ごめんね」
なんだ冗談か。それならいいんだ。表情が変わらないから本気なのかと思っちまったぜ。さて、出したイグニスはポケットにしまってっと。
「いや、君が謝る必要はない。気付かなかった俺も悪いしな」
そうだ。家の中では一切の戦闘行為を禁ずる、それは最初に二人で決めた約束であった。安心して休める、気を許せる場所も必要だと彼女は教えてくれた。それがこの場所、自分の家だ。つまり、ここでアリアに襲われるという事はありえない。絶対にだ。そのことを失念していたのは本当に申し訳ないと思う。
「あのー、突然殺伐とした雰囲気になるのは一向に構わないのですけれど、時間は大丈夫なのですか? もうすぐお昼になりますが……」
リビングにある柱に備え付けられた時計を見ながらシエルは疑問を投げかけてくる。たしかカズキには午後には行くと言ったはずだが、それはあくまで遅くともだ。早く着くぶんにはなんの問題もあるまい。
「あ、悪い。それじゃ、行こうか」
母さんに渡された荷物を持って家の外へと出る。
俺を追ってアリアとシエルはついて来るが、二人とも頭の上にクエスチョンマークを浮かべたままであった。
「それで、何処に向かうのです? 着くまで内緒というならそれでもいいのですけど」
いいのか。まぁ、自分の知らない場所に行くというのは多少なりともワクワクするものだけどさ。俺を信用し過ぎではないかねシエルは。こう、怪しい場所に連れ込まれるとか考えないのかなぁ。
「わく、わく」
アリアまで……。
「わかった。ご期待に添えるよう、詳細は目的地に到着してからにする」
別に隠すようなことでもないけど、面白そうだしノッてみるとしよう。
途中、バスを乗り換えながら二十分ほどの距離を移動し――
「わーお。人がゴミのようだ」
アリア、それ君が言うと洒落になってないぞ。頼むから騒動だけは起こさないでくれよ? 大丈夫だとは思うけど、一応気にかけておくか。
たくさんの人が集まる、空高くそびえる建物。
そこには子供から大人まで、時には老人すらもいた。
彼ら、彼女たちはここに何をしに来ているのか。
「キョーマ、ここって」
「うん。見ての通りの場所さ」
答えは単純だ。
振り返り、迎えるように手を広げる。
「ようこそ我が学び舎へ。二人とも、歓迎するよ」
かくして、俺たちはこの国で唯一ともいえる学校へと到着したのだった。




