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第9話 消えた刃の記録

漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。


一週間お休みさせて頂きましたが、連載を再開しました。


旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。

 翌朝、液タブのペンを握った瞬間、右手の奥がじんと痺れた。


 痛いというほどではない。正座のあとに足を踏み出したときの、頼りない感覚に近い。けれど昨夜、河川敷で握った白い柄を思い出すには十分だった。


「筋肉痛、早すぎないか」


 アツは右手を開いて、閉じた。


「そこ、筋肉ではないと思います」


 向かいの席でサチハが言った。胸元に触れていた手を、何でもなかったように机へ戻す。


「村上さんは大丈夫?」


「もう苦しくありません。加藤さんより健康です」


「比較対象が弱いなあ」


 画面には、昨日まで直していた武器アクションのコマが残っていた。腰、足、肩、刀身。修正履歴を開けば、どこを何時に直したかまで並んでいる。

 原稿なら、失敗しても一つ前へ戻れる。

 昨夜の刃には、それがない。

 長かった気がする。重かった気もする。けれど、白い線はもうどこにも残っていなかった。


「加藤さん」


 呼ばれて振り向くと、キズナが端末を抱えて立っていた。隣ではサキが昨夜の記録を開き、ケンが時刻と車両位置を確認している。


「原稿の前に、昨夜の確認をします」


「反省会ですか」


「通常の報告は終わっています」


 キズナは端末を机へ置いた。

 画面には何やら短い文字列が並んでいる。


【ログ】

《描線武器形成を確認》

《魔反応:一体消失》

《使用者:加藤アツ》

《該当ライセンス:なし》

《武器使用権限:なし》

《監督責任者:戸隠キズナ》


「今日は」


 キズナがアツを見る。


「加藤さんのライセンスについてです」


 右手の痺れが、少しだけ強くなった。


*


 昨夜持ち出した眼鏡とペンは、机の端にまとめられていた。

 サチハの端末には、名前、所属、担当、機材の稼働記録がすでに並んでいる。確認欄へ指を置くと、短い電子音が鳴った。


「終わりです」


「早い」


「持ってますから」


「何を」


「資格を」


 言い方を聞くと、自分が無免許運転でもしたみたいに思えてくる。

 一方、アツの画面には黄色い枠が出ていた。


《同行観測者枠》

《描線武器形成:検出》


 アツは隣のサチハを見る。


「村上さんも後ろにいたのに、オレだけ?」


 キズナが端末から顔を上げた。


「村上さんは本ライセンスを持っています」


「でも、昨日は武器を使ってませんよね」


「使わなかったんです。使えないわけではありません」


 サチハは少し居心地悪そうに肩をすぼめた。


「今は、どこに配置するか見てもらっている途中なので。武器とか、連携とか」


「試用期間みたいなもの?」


「サチはちゃんと資格取ってます」


 キズナがアツの画面を指した。


「加藤さんは、本来見るために同行してもらいました。観測と報告までだったんです」


「でも、出ましたよ。武器」


「武器が形成されたこと自体が、まず確認対象です」


 そこで一度、言葉を切る。


「使わせた判断は、私の責任です。加藤さんはそれ以上動いていません」


「そこは加点?」


「審査材料です」


「世知辛い」


「資格は、出せるかどうかだけで決まりません」


 透明なケースの中で、描線ペンは何も知らないふりをしているように見えた。

 キズナが通信端末を起動する。


「A stationだけでは判断できません。協会で担当している理事とつなぎます」


 画面に名前が表示された。

 星野トシロウ。

 キズナの背筋が、ほんの少し伸びた。


*


 通信がつながると、画面には星野トシロウの名前があった。


 知っている、とアツは思った。

 というより、漫画に興味があれば知らないはずが無いくらいの巨匠だ。

 映像はない。


『同じ線を引かせて、再現は試したかい?』


「まだです。描線ペンには触れさせていません」


『それでいい。まず紙で順序だけ再現させてみるんだ』


 キズナの返答が、いつもより半拍だけ速い。アツは隣で背筋を伸ばした。つられて伸びた自分が少し悔しい。


『眼鏡とペンを渡したのは』


「私です」


『魔を斬れと指示したのは』


「私です」


『なら、預けた責任も、現場で指示した責任も君にある』


「はい」


 叱られているのか確認されているのか、声だけでは分からない。キズナが言い訳をしないことだけは分かった。


「協会って、漫画賞をやってるところですよね」


 アツが口を挟むと、通信の向こうで短く息が止まった。


『それも仕事の一つではある』


 キズナが続ける。


「描線眼鏡とペンを開発して、必要な人へ貸し出し、管理するのも協会です。使う人の登録やライセンス、所属先の監督も」


「漫画賞から急に守備範囲が広い」


『魔への対処まで含めれば、狭くはないな』


 アツは黙った。昨日まで曖昧だった線が、急に制度の中へ収められていく。


『加藤アツくん。昨夜、何が見えた』


「黒い境目みたいなものです。後ろから、こっちへ」


『何を斬った』


「魔を」


『斬ったことはわかったんだな。どうして刃が出たことはわかるか?』


「黒い道が膨らんだ向きを……説明するより、使う形にした方が早いと思ったんです」


『ふむ。使う形か……通常はその過程では刃は形成されない』


 昨夜の刃が急に重く感じた。


『なぜ説明より、使う形と思ったんだ』


「昔から、絵を描く時に、それが現実にあったらどんな形で、どう動くんだろうって考えてたからだと思います」


『それが君の考える絵の描き方なんだな』


「はい……」


『もう一つ。簡易報告に、君たちを経路として選んだように見えた、とあるな』


「そう見えました」


「そこは推測です」


 キズナが静かに言い足した。

 アツは言い直した。


「こっちへ近づいていました。選んだかどうかは分かりません」


『その分け方は覚えろ』


 声は淡々としていたが、そこで初めて、聴取が少しだけ前へ進んだ気がした。


*


『ログを出してくれ』


 星野の声に、サキが画面を切り替えた。

 白い線が、暗い河川敷の上へ順番に浮かぶ。太い柄。短い軸。その先へ、閉じきらない刃。


「……こんなでした?」


「記録では」


 サキが抑揚なく付け加える。

 アツの記憶では、もう少し長かった。少なくとも、もう少し格好よかった。画面の刃は途中で欠け、外周の二重線もずれている。

 形成から切断まで、3.2秒。崩壊まで足しても六秒に届かない。


「体感では三十分くらいありました」


『盛るな』


「二十分」


『そういう問題ではない』


 キズナが咳払いをした。笑ったのをごまかしたらしい。


『魔は現実側に、普通の物質と同じ身体を持っているわけじゃない』


 星野が言った。


『人の恐怖や怒り、痛みの記憶が、向こう側に痕跡として現れる。誰か一人の感情が、そのまま化け物になるわけではない。積もり、混ざり、変質した現象だ』


「向こう側って、バーチャル的な何か?」


『今はそう覚えておけば良い。濃く集まれば、実体がなくても現実へ触る。物をずらし、人の感覚や判断を鈍らせ、事故を呼ぶことがある』


「事故のあとに出るだけじゃなくて、魔が事故を起こすことも?」


『ある。事故や災害のあとに増えることもあって、魔が先か事故が先か分からない現場も多い』


 ボヤの壁に残った黒い揺らぎと、昨夜の河川敷を走った経路が、ようやく同じ線の先に並んだ。


『普通の武器ではない。眼鏡で位置を合わせ、ペンで同じ側へ線を通す。君の使う形に描くという表現はそこにつながるものがある。昨夜と同じ形を今描けるか?』


 サキが白い紙と鉛筆を差し出した。アツは鉛筆を握り、昨夜を再現してみた。

 まず、握る場所。次に、力の通る軸。最後に、振り抜く方向。

 同じ順番で線を置く。それでも紙に現れたのは、刃になりたがっている途中の形だった。


『最初から刀を描くつもりだったのか』


「刀じゃなくて、振れる形を。握れて、力が通って、あそこまで届く形です」


 紙は白いままだった。何も光らず、何も切れない。


『今の形では再現できていない。再現できないものを、現状能力とは認められない……』


 星野は少し間を置いた。


『だが、偶発で片づけるには、確かな跡が残りすぎている』


 アツは画面の刃と、紙の未完成な刃を見比べた。

 どちらも、自分が覚えているものとは違っていた。


*


『現時点でライセンスの有無は問わない』


 星野の声に、アツは少しだけ息を吐いた。


『緊急時で、現場の指示もあった』


「では、問題なし?」


『そう都合よくはない』


「ですよね」


『観測者登録から描線武器の形成がされた事実は残る。それは制度上想定されていない。キズナ、次の同行では、加藤くんに単独判断でペンを使わせるな』


「はい」


『正式査定までは仮ライセンス扱いにする。単独使用は禁止。キズナの監督下だけだ』


「ちなみに……その査定、落ちたらどうなります?」


『キズナのスタジオで、そのまま漫画の制作補助をしろ』


「……普通に仕事続けて良いんですね?」


『普通のことができない者に、普通でないものは預けられない』


 通信が切れる。画面から星野トシロウの名が消えると、部屋の空気が少しだけ戻った。


 アツはキズナを見る。


「今の人、あの星野トシロウ先生なんですか」


「私の師匠でもあります」


「師匠にも師匠がいるんだ」


「当然です」


 キズナは端末を閉じる。


「では、原稿へ戻ります」


「切り替えが早い」


「締切は待ちません」


 画面には、刀を振る人物がまだ不自然な肩で立っていた。

 昨夜、実際に白い柄を握った。重さも、振り抜いたあとの痺れも知った。それでも、絵の中の刀は少しも上手くなっていない。


「肩が上がっています」


「実際に振ったのに、そこは直らないんですね」


「一度振っただけで上手くなるなら、誰も練習しません」


 アツは肩の線を引き直した。

 画面の端に、新しい修正履歴が一つ増える。


 昨夜の刃は消えた。

 けれど、引いたことだけは、もう消えなかった。



今回は、現場で起きたことをどう記録し、どう説明するのかに焦点を当てています。


見えたもの。

見えなかったもの。

残った記録。

そして、本人にしか分からない感覚。


引いた線は、消えたあとも何かを残します。

その残ったものをどう受け止めるのかが、今回の話になります。


現在、第1話「羽田の白い線」から第9話「消えた刃の記録」まで公開中です。

今からでも第1話から追っていただけますので、旧編からの方にも、初めて触れてくださる方にも、新しい入口として楽しんでいただければ嬉しいです。


今後は基本的に、毎週木曜・日曜の週2回更新で続けていく予定です。


引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。

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