第10話 締切の向こう側
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。
旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。
星野との通信が切れてから、まだ五分も経っていなかった。
サキが端末を操作すると、画面から昨夜の戦闘ログが消えた。代わりに並んだのは、三十二個の小さな枠だった。
《完成》
《仕上げ中》
《修正待ち》
《最終確認待ち》
さっきまで《魔反応:一体消失》と表示されていた場所に、今度は赤い数字が浮かぶ。
《残り六時間二十三分》
「切り替え、早くないですか」
「どちらも今日の仕事です」
キズナは当然のように答えた。
「十八時四十五分から全ページを最終確認します。十九時三十分が締切です」
「今日が入稿なんですか?」
「水曜日なので」
「毎週?」
「この連載は」
アツが右手を開き閉じしていると、キズナの端末が短く鳴った。
《査定資料追加提出》
《加藤アツ・通常作画サンプル》
「戦闘の査定に、漫画も要るんですか」
「星野先生は、戦場の線だけでは判断しません」
キズナは進行表から、アツが修正した背景と武器アクションのページに印をつけた。
昨日まで単なる仕事だった線が、急に答案へ変わっていく。
「これ、下手だったら資格にも響くんですか?」
「上手いかだけを見るとは限りません」
「それ、安心していい言い方じゃないですね」
向かいではサチハが時計を見ていた。
「昼休みはありますか」
「食べながらなら」
答えるより先に、ケンが人数分のサンドイッチを机へ並べた。
「午後二時に担当さんが来る。それまでに、食べるのと手を動かすのを両方やって」
「口と手、別々に使えるかな」
「漫画家志望なら練習してください」
アツはサンドイッチをくわえ、液タブのペンを握った。
右手の痺れはまだ残っている。
けれど今度の敵は、黒い経路ではなかった。
十九時三十分まで、止まらず進む時計だった。
*
午後二時きっかりに、呼び鈴が鳴った。
「皆さんお疲れさま〜! 集談館のフクハラで~す」
名乗りながら入ってきた男は、片手に紙袋、もう片方に薄い端末を抱えていた。コートを脱ぐより先に進行表をのぞき込む。
「修正待ち、まだ二ページありますね」
「挨拶より先にそこですか」
「差し入れより大事なんで」
紙袋から菓子と栄養飲料が出てくる。大事ではない方も抜かりがなかった。
フクハラはキズナたちには短く手を上げ、アツとサチハの前で足を止めた。
「新しく入ったアシさんだよね。担当編集のフクハラです」
差し出された名刺には、集談館と『週刊コスモス』編集部の文字が並んでいた。
アツは両手で受け取る。自分が触った原稿が、本当に週刊漫画誌に掲載されると思うと、急に紙が重く感じる。
「加藤アツです」
「村上サチハです。よろしくお願いします」
サチハはきれいに頭を下げた。アツも遅れてまねをする。
フクハラは二人を見比べ、それから室内を一周見渡した。
「皆さん、ずいぶん疲れてませんか」
「昨夜、ちょっとした別件がありまして」
キズナが答える。
「締切は別件になってくれませんからね」
詳しく聞かず、フクハラは三十二ページの一覧を開いた。
アツはその数字を見て、前から気になっていたことを尋ねた。
「これって、もう連載なんですよね」
「短期集中連載。三回だよ」
フクハラは顔を上げない。
「その先があるかは、この三回にかかっている」
「厳しい」
アツが漏らす。
「本当のことです」
キズナが口を挟んだ。
作業に戻ったフクハラは、キズナの描いた人物の横顔を指す。
「ここ、読み切りのときも同じ角度を直しましたよね」
「今回は首の向きが違います」
「漫画家は全員そう言います」
「今回は本当に違います」
二人の会話には、アツが来る前から積み重ねた修正履歴があった。
「短期連載が正式連載になることもあるんですよね」
サチハが尋ねる。
「春からの候補には入っている」
フクハラはそこで初めて端末を閉じた。
キズナは何も言わず、修正待ちのページを開いた。
短期集中という言葉より、その先がまだ決まっていないことが、部屋の空気を少しだけ重くした。
*
修正待ちの二ページが、全員の机へ仕事を増やした。
さっきまで締切はただの時間制限だった。いまは、その先にある三回目まで見える気がした。
「二十一ページ、人物の肩を下げます」
キズナが言う。
「背景との隙間が変わるので、二十二ページの効果も見直します」
サキが即座に進行表を書き換えた。
「一ページ直すだけじゃダメなんですか?」
アツが尋ねると、ランが画面を拡大する。
「肩が下がる。刀の角度が変わる。効果線が合わなくなる。足元の影もずれる」
「仲がいいんだな、全部」
「原稿の中ではね」
マナセが短く返し、効果線のレイヤーを開いた。
サチハには背景小物と、指定された箇所の仕上げ、アツには武器アクション場面の修正が回ってきた。
「また肩ですか」
「直っていないので」
アツが肩の線を下げると、刀身が背景の柱へ食い込んだ。刀を直すと、今度は効果線の中心が外れる。
「一本直すと、二本増える」
午後四時を過ぎた頃、一度完成になった二十七ページが赤へ戻った。
「差し替えです」
サキが告げる。
「何が」
「二十一ページの修正で、見開きの流れが変わりました。同じ構図を使っている二十七ページも差し替えです」
「ページをまたいで追ってくるんだ」
「締切前の修正は行動範囲が広いです」
進行表が更新される。誰かが保存し、誰かが受け取り、別の誰かが仕上げる。原稿の線は机から机へ移るたび、少しずつ形を変えていった。
アツが次の資料を探していると、キズナの机の端に別の束があるのに気づいた。
人物の顔は同じだが、コマはまだ粗い。台詞も手書きで、余白にはフクハラの付箋がいくつも貼られている。
「これ、何ですか」
「第二回のネームだよ」
フクハラが答えた。
「今日のを出してから始めるんじゃないんですか」
「それだと来週に間に合わないよ」
キズナは第一回の人物を修正しながら、空いた手で第二回の付箋を一枚移した。
「終わってないのに、次が始まってる」
「週刊の進行っていうのは、こういうものさ」
フクハラは平然と言う。
進行表の緑が一つ増える。その横で、第二回のネームには新しい赤い付箋が増えた。
三十二ページの終わりは、次のページの始まりと同じ場所にあった。
*
十八時四十分、進行表の最後の赤が緑に変わった。
「終わった」
アツが息を吐く。
「まだある」
キズナとフクハラの声が重なった。
十八時四十五分。全三十二ページの最終確認が始まる。
サキが一ページ目から順に画面へ送る。キズナが絵を見て、フクハラが台詞とページの流れを追う。ケンは確認済みの番号を読み上げ、ランとマナセは呼ばれた修正へすぐ動けるよう端末を開いたまま待つ。
「七ページ、吹き出しの端が切れています」
「直します」
「十三ページ、黒が薄い」
「書き出し設定です。戻します」
完成したはずの原稿から、小さな穴が次々に見つかる。
「完成って、何でしたっけ」
「最終確認前の希望的観測です」
フクハラは画面から目を離さない。
二十四ページまで進んだところで、サキの指が止まった。
「二十七ページ、更新時刻が違います」
部屋の空気が一段だけ固くなる。
画面には、修正前の背景が残っていた。人物の足元がわずかに浮き、直したはずの影がない。
「それ、オレが触ったページ……」
誰も返事をしなかった。
サキが履歴を開く数秒が、昨夜の三秒より長く感じた。
「履歴を確認します」
サキは責めるでも慰めるでもなく、保存記録を開いた。
途中で担当を移した際、修正版だけ別の作業フォルダへ残っていた。原因が分かると、全員が同時に動く。
正しい版を拾い、関連する見開きを確認し、一覧画像を作り直す。
時計は十九時十二分。
「十九時半って、送信を始める時間ですよね」
アツが聞く。
「違うんだな」
フクハラが即答した。
「編集部で、全ページの受領が確認されている時間になる」
「今、聞く前より五分くらい減りました」
十九時二十分、入稿データの送信が始まった。
画面の進行表示が、ひどくゆっくり伸びていく。
昨夜の戦闘では誰かが声を上げ、白い線が走った。今は誰も叫ばない。ただ数字だけが、一パーセントずつ増えていく。
十九時二十七分。
端末が短く鳴った。
《全32ページ受領》
《データ確認完了》
フクハラがようやく背もたれへ体を預ける。
「入稿完了」
歓声は上がらなかった。
アツは机へ額をつけ、サチハは静かに息を吐き、ケンは残っていた飲み物を全員へ配った。
キズナだけが、三十二ページの一覧をもう一度見ていた。
*
「終わった……」
アツは机へ額をつけたまま言った。
「第一回はね」
フクハラが訂正する。
顔を上げると、その手にはもう別の紙束があった。粗いコマと手書きの台詞。さっき机の端で見つけた、第二回のネームだ。
「今それを出します?」
「出すのではなく、戻す」
赤い付箋が一枚増えた。
「週刊って、終わった直後に次が来るんですね」
「直後じゃないよ」
フクハラは紙束をキズナへ渡す。
「もう始まっている」
キズナはアツの修正履歴を、星野への査定資料へ追加した。
「それも送るんですか」
「先生への査定資料です」
「入稿した原稿も?」
「普段の線も見る、と言われたでしょう」
今日一日で何度も直した肩と刀が、今度は戦う資格の材料になるらしい。
「漫画と戦闘、採点表は別にしてほしいんですが」
「描いた線は、どちらにでも出ます」
フクハラが端末と空になった紙袋をまとめ、コートへ腕を通す。
「ああ、そういえばもう一件伝達」
「修正ですか」
室内の全員が身構える。
「短期連載に合わせて、女子高生漫画家の戸隠先生へ取材の申し込みをしたいのだと週刊誌から」
フクハラが依頼書を画面に出した。
『週刊文潮』。新人賞と『眼鏡の女の子』について話を聞きたい、とある。
「担当は契約記者の――野田という人」
アツはその名前を覚えていた。
何度も見返した動画のクレジット。羽田で、スマートフォンを下ろさなかった男。
泣いている人も、炎も、画面の外へ逃がさないように追っていた目。
キズナがアツを見る。
「知っている人ですか」
「知っている、というか」
言葉が止まる。
締切の次に来たのは、警報ではなかった。
羽田から、こちらへ伸びてきた名前だった。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、魔との戦いから一転して、A stationのもう一つの戦いである週刊漫画の入稿作業へ移ります。
戦闘ログから、三十二ページの原稿へ。
見えない異変への対応が終わっても、締切は待ってくれません。
編集者・フクハラの圧の裏にある、短期集中連載の先にあるものは?
「終わった直後にはもう次が始まっている」という現場。
主人公アツが修正した原稿の線は、単なるアシスタント作業に留まらず、別の意味も持ち始める。
戦場で引いた線だけではなく、普段の作画の線も見られ、そのことが、少しずつアツ自身の立場へつながっていきます。
そして終盤では、羽田でアツが目にしたある名前が。
締切の向こう側に来るのは、次の原稿だけではありません。
ここから物語は、漫画の現場と羽田の出来事をもう一度つなぎ直していきます。
現在、第1話「羽田の白い線」から第10話「締切の向こう側」まで公開中です。
今からでも第1話から追っていただけますので、旧編からの方にも、初めて触れてくださる方にも、新しい入口として楽しんでいただければ嬉しいです。
今後も基本的に、毎週木曜・日曜の週2回更新で続けていく予定です。
引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。




