第11話 追うもの
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。
旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。
月曜の朝から、スマートフォンに見慣れない帯が残っていた。
【警戒情報】
《対象地域:東京湾岸〜川崎臨海部》
《対象時間:本日午後〜夜間》
《異常集積傾向:上昇》
アツは電車の中でも三回見直した。けれどスタジオへ着いてみれば、鳴っていたのは警報ではなく液タブのペン先だった。
「普通に仕事するんですね」
「出るとは限りませんから」
キズナは顔も上げず、短期連載二回目の原稿に赤を入れている。
サキのモニターには関東の地図と細い波形。ランは隣で数字の列を眺め、マナセは天気図を開いていた。
「湾岸側、少し上がってます」
「こっちは揃ってないなあ。海側だけ変に跳ねる」
「午後から湿度も上がるね。風も嫌な向き」
「三人とも別の話してません?」
アツが言うと、ケンがコーヒーを置いた。
「だいたいいつもそうだよ」
向かいでサチハが胸元へ手を当てる。
「サチは……遠くに重いところがある感じがします」
キズナがそこで一度だけ顔を上げた。
「それでいいです。感じたことは伝えてください」
アツは机の端に置いた描線ペンを見る。
正式査定までは仮ライセンス。単独使用は禁止。その条件を思い出すと、今日はむしろ、勝手に何かが出ないことに少し安心した。
「で、警報が来たら?」
「その時は」
キズナのペンが止まる。
「その時点で漫画を保存してから出ます」
「そこは絶対なんですね」
「締切は魔より待ってくれませんから」
*
午後四時を少し回ったところで、スタジオ中の端末が一斉に震えた。
アツのスマートフォンも、机の上で跳ねる。
【協会アプリ】
《Priority Alert/警戒レベル:SR》
《予測地点:川崎市臨海部(旧工業地区)》
《予測範囲:1200m±150m》
《予測時間:+00:45:00±06:00》
《反応:1》
《対処類型:嵐魔》
「来た」
サチハの声と同時に、キズナが立ち上がった。
「出ます」
それだけだった。
サキは大型端末を閉じ、ランはケーブルを抜く。マナセは天気図を残したまま端末を抱え、ケンはもう車の鍵を指に引っかけている。
アツだけが一拍遅れた。
「え、もう?」
「四十分前後しかありません」
キズナが装備を取る手を休めずに言う。
アツも慌てて自分の眼鏡とペンを掴んだ。
「武器は……今描かなくていいんですか?」
「まだ相手が分かりません」
「嵐魔って出てますけど」
「嵐魔にも色々います」
言いながらキズナは、開いていた原稿を保存する。
アツも反射的に液タブへ手を伸ばした。
「……こういう時でも保存するんですね」
「こういう時だからです」
保存完了。
その表示を確認してから、キズナはドアへ向かった。
「行きますよ」
この前は何が起きるのかも分からないまま、現場に立っていた。
今日は違う。
分からないものを、これから探しに行く。
アツは描線ペンをホルダーへ差し込み、最後にスタジオの灯りを振り返った。
第二回の原稿は、途中のままで待っている。
*
ケンは道路状況を確認して東名に乗る。ミニバンが、横浜青葉から首都高横浜北西線へ入った頃には、フロントガラスを細かな雨が叩き始めていた。
「予測中心、少し北へずれました」
二列目中央のサキが端末を見たまま言う。
「どのくらい?」
「四百メートルほど。範囲も九百まで縮小」
「まだ広いなあ」
ランは二列目で別のグラフを指先で送っていた。
「でも、こっちはさっきから海側に跳ねるんだよね。揃いそうで、揃わない」
「風は逆」
マナセが天気図を拡大する。
「湿度は上がってるけど、気圧の落ち方は内側の方が強い。海沿いだけ追うと外すかも」
アツは後ろから三人の画面を順番に見た。
「つまり、どれが正しいんです?」
「全部です」
キズナが即答した。
「一番困る答え来た」
「だから重ねます」
ケンがハンドルを切る。
「じゃ、協会の中心点は一回捨てるぞ。産業道路から北へ入る」
ナビ上の青い経路が曲がった。
サキの地図には大きな円。ランの画面では細い点が不規則に跳ね、マナセの天気図では雨雲が斜めに流れている。
同じ場所を見ているのに、誰も同じものを見ていない。
アツはふと、サチハが黙っていることに気づいた。
「村上さん?」
「ん……」
胸元に手を置いたまま、窓の外を見る。
「さっきより、近い気がする」
「方向は?」
キズナが振り返る。
「分かりません。近いだけです」
「了解」
分からないなら、分からないまま出す。前なら頼りなく聞こえた言葉が、今は妙に正確に思えた。
「予測更新」
サキの声。
《予測範囲:620m±90m》
「北東へ収束しています」
「待って」
ランが身を乗り出す。
「今、跳ねた。北じゃない。もっと右」
「右ってどっちだよ」
「ケンさんから見て右!」
「最初からそう言ってくれ。そっちは湾岸の古い倉庫街だな」
マナセが窓の外を見た。
「そっちでいいと思う。風も落ちてる」
ケンがウインカーを出す。
「よし。ここで曲がるぞ」
建物が低くなり、フェンスと倉庫が増えた。雨に濡れた鉄骨の向こうで、空が一度だけ白く光る。
少し遅れて、低い雷鳴。
車内の誰も、もうしゃべらなかった。
アツは窓に額を近づけるが、まだ何も見えない。
見えないものを、七人で追い詰めている。
しばらく進んで、サキが言った。
「予測中心まで、あと三百」
ケンが速度を落とす。
「そろそろ車じゃ追えないな」
キズナが眼鏡のフチへ手をかけた。
「ここから先は、直接見ます」
*
ミニバンが、古い倉庫の並ぶ脇道で止まった。
ドアを開けた瞬間、雨音が一気に近くなる。
「うわ、寒っ」
アツは肩をすくめながら外へ出た。
濡れたアスファルトに錆びたフェンス。使われているのか分からない配電設備。その向こうに、低い倉庫が何棟も並んでいる。
「足元、滑るから気をつけろ」
ケンが後ろから声をかけた。
キズナたちはすでに描線眼鏡をかけている。アツもケースから眼鏡を取り出し、耳にかけた。
視界が一度だけ揺れる。
が、何も見えない。
「……来ないですね」
「待ってください」
サキが言った、その直後だった。
フレームが小さく震えた。
【HUD】
《ALERT:状況発生》
《危険度:SR》
《RANGE:80m±20m》
《予測:+00:03:20》
「近っ」
思わず声が出た。
「八十メートル?」
「ここからは眼鏡で追います」
キズナが先へ進む。
アツも続いた。
倉庫の角を曲がったところで、視界の端に黒いものが引っかかった。
「……あ」
水溜まりの縁。
黒い線が、地面の上を這っている。
見ようとすると消える。目を外すと、また残る。
さらに先では、鉄柵の一部がわずかに二重にずれて見えた。
「右のフェンス。黒いのがあります」
「位置だけで」
サキの声が飛ぶ。
「形は?」
「分かりません。線みたいなのが、こっちから奥へ」
それだけ言って、アツは口を閉じた。勝手に意味を足さない方がいい。
サチハが少し遅れて立ち止まった。
「サチ、右の方が嫌です」
「見えますか?」
「見えません。重いだけ……です」
サキが端末を見る。
「データでは左寄りです」
ランも眼鏡越しに奥を見た。
「でも、右も変。揃ってない」
誰もすぐには動かなかった。
キズナが両方を見比べる。
「分けません。順番に確認します」
先頭が右へ向きを変える。
二分ほど倉庫の間を縫うように進んだところで、遠くの鉄骨が一瞬だけ白紫に光った。
雷鳴は、今度はすぐに来た。
《RANGE:40m》
アツにはもう黒い線が収束していくのが見えていた。
さっきまで地図の中の数字だったものが、同じ雨の中にいた。
*
倉庫の間を抜けると、古い受変電設備と鉄骨の骨組みが向かい合う、少し開けた場所へ出た。側溝を流れる雨水が、黄色い街灯を細く引き伸ばしている。
「現出します」
キズナが立ち止まった。
マナセが空を見上げる。
「気圧、ここだけ落ち方が速い」
サチハは右腕をさすった。
「重い。さっきより、ずっと」
アツは黒い線の集まりを追う。
側溝から水溜まりへ、水溜まりから鉄柵へ、鉄柵から、古い配電設備へ。
ばらばらだった線が、同じ場所へ向かい始めている。
「リンクします」
キズナが描線ペンを水平に差し出した。
ケンがポケットから一本取り出す。愛用の黒いデッサン鉛筆だった。
「それでいいんですか?」
「オレはこれしか出ないからな」
「リンクしませんよね、それ」
「気持ちはする」
「気持ちなんだ」
キズナは止めなかった。
マナセ、ラン、サキ、サチハが続けて描線ペンを重ねる。
アツも慌ててペンを重ねた。
「キズナ」
「ケン」
「マナセ」
「ラン」
「サキ」
「サチハ」
「……アツ」
一拍。
「Save your peace!」
ペン先の重なった場所から、白い輪が広がった。
《HOST:KIZUNA》
《SYSTEM LINK:CONNECT》
《SYSTEM LINK:COMPLETE》
アツの視界が変わった。
前方にキズナ、左にラン、右にマナセ。後方にサキとサチハ。
それぞれの位置が淡い印になって浮かび、サキが付けた観測点まで同じ景色の上に重なった。
「……これ、みんなの位置?」
「見失わないでください」
キズナはもう前を見ていた。
さっきまでばらばらだった六人の位置と観測点が、一枚の地図になっている。
「じゃ、オレは後ろから見る」
ケンが鉛筆をしまい、車へ駆け戻る。
《予測:+00:00:20》
全員が散った。
アツも指定された位置へ下がる。
雨の向こうで小さな羽音がした。ケンの操縦するドローンが倉庫の屋根を越えていく。
《00:00:08》
鉄柵が白紫に光った。
《00:00:05》
水溜まりの黒い線が、地面から浮く。
《00:00:03》
側溝。鉄骨。配電設備。
そこに張りついていた黒い筋が、一本ずつ引き寄せられる。
《00:00:01》
線が折れた。
重なった。
厚みを持った。
前脚のようなものが地面を踏み、その背が盛り上がる。頭部らしき輪郭が、雷光の中で閉じていく。
《現出確認》
《反応:1》
巨大な獣の輪郭が閉じ、黒い個体として雨の中に立ち上がった。
アツは息を呑んだ。
前回は何が起きるのかも知らずに、その瞬間を見ていた。
今日は違う。
全員が、これが来ると知って待っていた。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
前回は週刊連載の入稿作業を描きました。見えない異変への対応が終わっても、締切は待ってくれない。そんなスタジオA stationの日常を描いた回でした。
今回は月曜の朝に届いた魔への警戒情報から物語が始まります。出るとは限らない。だから、A stationではいつものように原稿作業が進みます。
そして午後にアラートが。
今回描くのは、まだ見えないものを、観測データ、天気図、身体感覚、眼鏡越しの視界を重ねながら追っていく過程です。
そして、チームのシステムリンク。
同じ場所を見ているのに、誰も同じものを見ていない。それでも、それぞれの見え方を重ねることで、見えない異常へ少しずつ近づいていきます。
現在、小説版新編『描線眼鏡』は第1話「羽田の白い線」から第11話「追うもの」まで公開中です。
引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。




